さる晩秋の日の、雪魚堂にて――
成海はふと、肩にあたたかいものを感じた。寝ぼけまなこを凝らしてみると、毛布が掛けられている。次第に意識もはっきりして、どういう状況なのか思い出した。
(そうか、あたし……三時のおやつ食べて、そのままカナくんと一緒に寝ちゃったんだ……)
晴海屋で買ってきた和風スイートポテト(和三盆にひと垂らしのしょう油がアクセントになっている)を三人で並んで食べた。とはいえ、やはりカナは手を付けず、いつもなら魚ノ丞が彼のぶんまでぺろりと平らげるのだが、今日はイモの魅惑に抗えず、成海が頂戴したのだ。
そうしてまんまと満腹になり、うつらうつらと舟を漕ぐカナに同調してしまったらしい。つまり、二人して座敷で眠ってしまったのである。毛布は、魚ノ丞が掛けてくれたのだろう。
ちらり、と成海が視線をやると、当の店主名代はちゃぶ台の上に作業道具一式を広げ、何やら手仕事をしている。
(魚ノ丞さん作業があるのに、こっちに残って店番してくれてたんだ……しまった……)
普段、魚ノ丞は店に出す品物などを作る際、座敷の障子のその向こうにある工房にこもる。工房、と言っても成海は見たことも、入ったこともない。魚ノ丞曰く、障子の向こうはこの常現世のあわいにある雪魚堂においても最も境界に近い場所らしく、現身が剥き出しになっている成海には危険だから――と、入るのを固く禁じられていた。
みこころうつしのそのまたうつしなども用いて作る種々様々な紙細工――それらを手掛けるには障子の奥の工房のように特殊な環境が必要なのだろうと成海はぼんやり考えていたが、ちゃぶ台でもできる作業もあるらしい。とはいえ、雇われである自分が寝こけて雇用主に店番させているような状況に、成海は気まずさを感じた。起きた、と告げるタイミングも逸してしまい、ちらちらと盗み見るように魚ノ丞の様子を探る。
さいわい、というべきか、彼は手元に没頭していて、成海に気づいたふうもない。機嫌がいいのか、それともクセか、鼻唄まじりに筆で書き物をしている。
一連の動作は流れるようで、指揮者が悠遠なる調べを奏でるがごとく成海の目に映る。しゅるる、と紙の上を穂先が滑るその音までも、耳朶に心地よく響いた。危うく再び眠りこけそうになったが、魚ノ丞が書き終えた紙片を脇に避けるのを見てハッと気づく。
(あれって、お客さんに渡す栞? 紐通すくらいだったらあたしでもできないかな。よし、ここはバチッと手伝いキメて名誉挽回、って、)
起き上がろうとして、成海は目の前の光景を疑った。
(え――……あれ、誰?)
視線の先にいるのは、魚ノ丞だ。この店の店主名代で、自称・紙魚の妖怪。ぼさぼさの総白髪にくたびれた着物、あからさまに胡散臭い黒の丸眼鏡をつけた、喰えない男――そのはずだ。
なのに今、ちゃぶ台の前に座り、筆を手にしているのは、どこからどう見ても――痩せ衰えた老婆だ。
ひい
ふう
みい、と
そりゃそうりゃそれで
彼が――彼女が口ずさむその歌のことのはが、成海の耳にしかと届く。
聞き馴染みのあるその一節はしかし、幾度か繰り返されたのち、変調を迎えた。
ひい
ふう
みい、と
そりゃそうりゃそれで
つめど かさねど つらねども
そこで再び、成海は目を見開いた。
老婆が、姿を変えた――戦場で傷つき果てた野武士に。
そそぎえぬ そそぎえぬ
くろうた とがの そのおもさ
そそぎえぬ そそぎえぬ
ケとなり いまだ はらのそこ
瞬きするたび、成海の目の前にいるその人物は違う姿を顕した。老婆から野武士に。野武士から法師に。法師から背広姿の男に。背広姿の男から着物と化粧の崩れた女に。
相貌も背格好も性別も、身分も職業も、おそらく生きた時代でさえも――なんら脈絡のないそれらの人物が、次から次へと立ち顕れて、消えていく。みな一様に歌を口ずさみながら、筆を走らせる。流れるように、滑らかに、指揮者のように連綿と調べを奏でている――
夢かうつつかもさだかでないその光景を前に、成海は言葉も思考もなかった。ただ、る、と、涙が滴り、畳の上にぱたりと落ちる。
恐怖ではない。感動でもない。
ただ、ただ、……かなしかった。
(ああ――あれはどれも、魚ノ丞さんだ)
理屈もなく、道理もなく、しかしそう直感した。歌を紡ぐ声音はそれぞれに違ったけれども、その中にある響きは一貫している――あの百鬼夜行でいつも彼が聞かせてくれた、の音だ。
しかしいつもは成海や雪魚堂を訪れた客人たちのための哀切と慈恵に満ちたその音色は、今、贖罪に打ち震えるような痛ましさを孕んでいる。そしてそれに終わりがないと――そうしてそれで当たり前だと――心から認め切っている。
だから成海は、かなしいのだ。
(――チャラけた人。おどけた人。でもそれも、いつも、誰かのための、とても、とても――優しい人。なのに、どうして? どうしてそんな歌を歌うの……まるで自分がひとりぽっちだってみたいに)
今目の前で筆を執っているのは、小さな、小さな男の子だった。
擦り切れきったズタ袋のような着物に、栄養失調で細りきった体躯、かさかさに乾いた唇から、自らを鞭打つように歌が零れる。
ひい
ふう
みい、と
そりゃそうりゃそれで
つめど かさねど つらねども
そそぎえぬ そそぎえぬ
くろうた とがの そのおもさ
そそぎえぬ そそぎえぬ
ケとなり いまだ はらのそこ
その音のひとつひとつが、成海の脳裏に重しとなって沈んでいく。
瞼を上げていられない、引きずり込まれるような眠り――その只中へと落ちていきながら、それでも成海は思う。
(ねえ、魚ノ丞さん。あたしはちっぽけで役立たずだけど――でもあなたがあたしに、みんなに、そうしてくれたように――いつか、あなたに――……)
◇◆◇
気づけば、成海は晴海屋の屋根裏にいた。布団の上に転がって、しばらく放心しながら、ぐう、と鳴ったお腹とともに階下へ降りる。
毅一の作ってくれた夕飯を食べながらそれとなく訊ねると、菜穂海が呆れた様子で答えてくれた。成海は夕方ふらふらと帰って来るや、少し寝る、と言って屋根裏に引き上げたらしい。まったく記憶にない当の本人は、狐につままれた心地だ。
だが、それにも慣れたものだ。雪魚堂から帰ってときは、いつもこんなものなのだから。
(そう、そしてこのまま夜が更けて、あの鈴の音が聞こえれば――始まる)
己が情焔にまつろわぬ御心を抱えたものどもが自分に似合いの化けの皮を被り、現世の憂さをいくばくか晴らさんと練り歩く、他愛ない夢まぼろしのお祭りが。
そして被る化けの皮も持たぬ成海もまた、あの場へ赴くのだろう。
(今はまだ、無力だけど……カナくんにも、魚ノ丞さんにも、なんにもしてあげられないけど)
それでも自分は〝雪魚堂の成海〟だから――そう、ありたいから。
屋根裏に戻り彼女は、窓から夜空を見上げて今日も待つ。
鈴の音が告げる、百鬼夜行の始まりを。
成海はふと、肩にあたたかいものを感じた。寝ぼけまなこを凝らしてみると、毛布が掛けられている。次第に意識もはっきりして、どういう状況なのか思い出した。
(そうか、あたし……三時のおやつ食べて、そのままカナくんと一緒に寝ちゃったんだ……)
晴海屋で買ってきた和風スイートポテト(和三盆にひと垂らしのしょう油がアクセントになっている)を三人で並んで食べた。とはいえ、やはりカナは手を付けず、いつもなら魚ノ丞が彼のぶんまでぺろりと平らげるのだが、今日はイモの魅惑に抗えず、成海が頂戴したのだ。
そうしてまんまと満腹になり、うつらうつらと舟を漕ぐカナに同調してしまったらしい。つまり、二人して座敷で眠ってしまったのである。毛布は、魚ノ丞が掛けてくれたのだろう。
ちらり、と成海が視線をやると、当の店主名代はちゃぶ台の上に作業道具一式を広げ、何やら手仕事をしている。
(魚ノ丞さん作業があるのに、こっちに残って店番してくれてたんだ……しまった……)
普段、魚ノ丞は店に出す品物などを作る際、座敷の障子のその向こうにある工房にこもる。工房、と言っても成海は見たことも、入ったこともない。魚ノ丞曰く、障子の向こうはこの常現世のあわいにある雪魚堂においても最も境界に近い場所らしく、現身が剥き出しになっている成海には危険だから――と、入るのを固く禁じられていた。
みこころうつしのそのまたうつしなども用いて作る種々様々な紙細工――それらを手掛けるには障子の奥の工房のように特殊な環境が必要なのだろうと成海はぼんやり考えていたが、ちゃぶ台でもできる作業もあるらしい。とはいえ、雇われである自分が寝こけて雇用主に店番させているような状況に、成海は気まずさを感じた。起きた、と告げるタイミングも逸してしまい、ちらちらと盗み見るように魚ノ丞の様子を探る。
さいわい、というべきか、彼は手元に没頭していて、成海に気づいたふうもない。機嫌がいいのか、それともクセか、鼻唄まじりに筆で書き物をしている。
一連の動作は流れるようで、指揮者が悠遠なる調べを奏でるがごとく成海の目に映る。しゅるる、と紙の上を穂先が滑るその音までも、耳朶に心地よく響いた。危うく再び眠りこけそうになったが、魚ノ丞が書き終えた紙片を脇に避けるのを見てハッと気づく。
(あれって、お客さんに渡す栞? 紐通すくらいだったらあたしでもできないかな。よし、ここはバチッと手伝いキメて名誉挽回、って、)
起き上がろうとして、成海は目の前の光景を疑った。
(え――……あれ、誰?)
視線の先にいるのは、魚ノ丞だ。この店の店主名代で、自称・紙魚の妖怪。ぼさぼさの総白髪にくたびれた着物、あからさまに胡散臭い黒の丸眼鏡をつけた、喰えない男――そのはずだ。
なのに今、ちゃぶ台の前に座り、筆を手にしているのは、どこからどう見ても――痩せ衰えた老婆だ。
ひい
ふう
みい、と
そりゃそうりゃそれで
彼が――彼女が口ずさむその歌のことのはが、成海の耳にしかと届く。
聞き馴染みのあるその一節はしかし、幾度か繰り返されたのち、変調を迎えた。
ひい
ふう
みい、と
そりゃそうりゃそれで
つめど かさねど つらねども
そこで再び、成海は目を見開いた。
老婆が、姿を変えた――戦場で傷つき果てた野武士に。
そそぎえぬ そそぎえぬ
くろうた とがの そのおもさ
そそぎえぬ そそぎえぬ
ケとなり いまだ はらのそこ
瞬きするたび、成海の目の前にいるその人物は違う姿を顕した。老婆から野武士に。野武士から法師に。法師から背広姿の男に。背広姿の男から着物と化粧の崩れた女に。
相貌も背格好も性別も、身分も職業も、おそらく生きた時代でさえも――なんら脈絡のないそれらの人物が、次から次へと立ち顕れて、消えていく。みな一様に歌を口ずさみながら、筆を走らせる。流れるように、滑らかに、指揮者のように連綿と調べを奏でている――
夢かうつつかもさだかでないその光景を前に、成海は言葉も思考もなかった。ただ、る、と、涙が滴り、畳の上にぱたりと落ちる。
恐怖ではない。感動でもない。
ただ、ただ、……かなしかった。
(ああ――あれはどれも、魚ノ丞さんだ)
理屈もなく、道理もなく、しかしそう直感した。歌を紡ぐ声音はそれぞれに違ったけれども、その中にある響きは一貫している――あの百鬼夜行でいつも彼が聞かせてくれた、の音だ。
しかしいつもは成海や雪魚堂を訪れた客人たちのための哀切と慈恵に満ちたその音色は、今、贖罪に打ち震えるような痛ましさを孕んでいる。そしてそれに終わりがないと――そうしてそれで当たり前だと――心から認め切っている。
だから成海は、かなしいのだ。
(――チャラけた人。おどけた人。でもそれも、いつも、誰かのための、とても、とても――優しい人。なのに、どうして? どうしてそんな歌を歌うの……まるで自分がひとりぽっちだってみたいに)
今目の前で筆を執っているのは、小さな、小さな男の子だった。
擦り切れきったズタ袋のような着物に、栄養失調で細りきった体躯、かさかさに乾いた唇から、自らを鞭打つように歌が零れる。
ひい
ふう
みい、と
そりゃそうりゃそれで
つめど かさねど つらねども
そそぎえぬ そそぎえぬ
くろうた とがの そのおもさ
そそぎえぬ そそぎえぬ
ケとなり いまだ はらのそこ
その音のひとつひとつが、成海の脳裏に重しとなって沈んでいく。
瞼を上げていられない、引きずり込まれるような眠り――その只中へと落ちていきながら、それでも成海は思う。
(ねえ、魚ノ丞さん。あたしはちっぽけで役立たずだけど――でもあなたがあたしに、みんなに、そうしてくれたように――いつか、あなたに――……)
◇◆◇
気づけば、成海は晴海屋の屋根裏にいた。布団の上に転がって、しばらく放心しながら、ぐう、と鳴ったお腹とともに階下へ降りる。
毅一の作ってくれた夕飯を食べながらそれとなく訊ねると、菜穂海が呆れた様子で答えてくれた。成海は夕方ふらふらと帰って来るや、少し寝る、と言って屋根裏に引き上げたらしい。まったく記憶にない当の本人は、狐につままれた心地だ。
だが、それにも慣れたものだ。雪魚堂から帰ってときは、いつもこんなものなのだから。
(そう、そしてこのまま夜が更けて、あの鈴の音が聞こえれば――始まる)
己が情焔にまつろわぬ御心を抱えたものどもが自分に似合いの化けの皮を被り、現世の憂さをいくばくか晴らさんと練り歩く、他愛ない夢まぼろしのお祭りが。
そして被る化けの皮も持たぬ成海もまた、あの場へ赴くのだろう。
(今はまだ、無力だけど……カナくんにも、魚ノ丞さんにも、なんにもしてあげられないけど)
それでも自分は〝雪魚堂の成海〟だから――そう、ありたいから。
屋根裏に戻り彼女は、窓から夜空を見上げて今日も待つ。
鈴の音が告げる、百鬼夜行の始まりを。