おまわりさんと招き猫

猫心は複雑ですにゃ

 これはまだ、僕がかつぶし交番に転勤してきてから、一ヶ月程度の頃。いつものように自転車のカゴにおもちさんを入れて、パトロールに出かけたある日のこと。道の脇で蹲っている、若い女性を見つけた。「お惣菜のはるかわ」の、すぐ傍だった。
 僕は自転車を加速させて近づき、女性に声をかけた。
「大丈夫ですか!?」
 具合でも悪いのか――と思って自転車を降りたのだが、顔を上げたその女性を見て、僕はあっと声を上げた。
「柴崎さん!」
 かつぶし交番に勤務する、僕の先輩警察官ではないか。今日は非直の柴崎さんは、仕事中は縛っている黒髪を下ろしている。おかげで後ろ姿では誰だか分からなかった。僕を見る涼やかな目は、お仕事のときと変わらない。
「お疲れ様です、小槇くん」
 休日らしからぬ堅い返しに、僕は思わず敬礼した。柴崎さんのこの堅物で他人と距離を取る感じは、お休みの日でも通常運転みたいだ。僕の横で、おもちさんが自転車のカゴの縁に前足を並べ、柴崎さんを見下ろす。
「ふむ、柴崎ちゃん。こんなとこに座り込んで、なにごとですかにゃ?」
「それは……」
 柴崎さんは照れくさそうに俯いてから、少し、身を傾けた。するとちょうど彼女自身が影になっていた場所に、ぴょこんと並ぶ三角の耳が見えた。
 地べたに寝そべって柴崎さんに甘えていたのは、黒猫のおのりちゃんだった。惣菜屋さんの脇によく出現する野良猫で、真っ黒な毛並みが海苔みたいだから、「おのりちゃん」。惣菜屋さんの息子、春川くんが名づけた。
 おのりちゃんは柴崎さんの脚にもたれかかって、ふわふわの顎を柴崎さんの手に擦りつけている。時々耳をぴくぴくっと動かしては、エメラルドグリーンの瞳で柴崎さんを見上げる。耳を澄ますと、ゴロゴロと喉を鳴らす音も聞こえた。
「おのりちゃんだ。柴崎さんにベタ馴れですね」
 僕は腰を屈め、おのりちゃんの顔をよく見た。なんだかもう、陶酔といっていいほど心地良さそうに、柴崎さんに寄り添っている。野良猫のはずなのに、まるで大好きな飼い主に甘えているかのようである。
 柴崎さんが猫好き――本人曰く、猫しか友達がいないというほど猫と戯れてきたというのは聞いていたが、ここまで猫を懐かせるのが上手いとは知らなかった。
 柴崎さんが僕を一瞥する。
「この猫、おのりちゃんって名前なんですか?」
「そうですよ。春川くんがつけた……て、ご存じなかったんですね」
「はい。この店にはよくおかずを買いに来ますが、この子に会ったのは初めてです」
「初対面なのにこんなに懐いてるんですか!」
「ええ、この子は特に人懐っこい子で。……最初は、警戒してましたけど」
「すごいな。僕、野良の猫を見かけても大体逃げられちゃうんですよ。いじめるつもりなんかないのに、怖がられちゃうんですよね。おもちさんみたいに言葉を話せれば、意思の疎通ができるのになあ」
 僕はちらっと、自転車のカゴから顔を出す喋る猫に目を向けた。おもちさんは高い位置から柴崎さんとおのりちゃんを見つめ、耳を横に寝かせている。
 柴崎さんが、おのりちゃんの狭いおでこを撫でた。
「猫からしたら、自分より体が大きくて力の強い生き物が近づいてきた、ってことですから。警戒するのは当然です」
 撫でられるおのりちゃんが気持ち良さそうに目を閉じる。短くにゃん、と鳴いたおのりちゃんに、柴崎さんは愛おしそうに指を沿わせる。
「今度、猫と出会ったら、目線を合わせてゆっくりまばたきをしてみてください」
「まばたき、ですか?」
 僕が繰り返すと、柴崎さんは頷いた。
「猫の愛情表現です。そーっとゆっくり目を細めて、まばたきをするんです。これで敵意がないって分かってくれる猫は多いです。もちろん、個体にもよりますので、怖がっている子に無理に近づいてはいけないのが前提ですが」
「へえ! まばたきにそんな意味があるんですね!」
「そうですにゃあ」
 僕が感嘆する横で、おもちさんが欠伸する。
「猫同士の挨拶でもあり、人間と一緒に住んでる猫が人間に対して『大好き』って気持ちがいっぱいになったときにもする仕草ですにゃ。それをされて悪い気はしないですにゃ」
「猫のおもちさんが言うんだから本当なんですね」
「ただし、じーっと長く目を見るのはだめですにゃ。それは目を逸らした方が負け、喧嘩の合図ですにゃ」
 おもちさんが付け足す。柴崎さんの手が優しくおのりちゃんを撫でる。
「猫が警戒心を解いてくれたら、撫で方にも気をつけてください。撫でられて嬉しいところと、触られたくないところがあります」
 なんだか、柴崎さんが猫に好かれるわけが分かった気がした。この人は猫が好きだから、猫の気持ちに真っ直ぐに向き合っているのだ。猫は、おもちさんでない限り人間と同じ言葉を持たない。でも仕草や表情で、僕らに気持ちを伝えようとしてくれている。柴崎さんは、それを受け取るのが上手な人なのだ。
 僕はまた、自転車のカゴを振り返った。おもちさんはカゴから顔を出すのをやめて、中で丸くなっている。耳をぺちゃんこにして、短い尻尾をゆっくり、ぽふんぽふんと振っていた。



 後日、僕が当直、柴崎さんが非番のある土曜日。
「ねえ柴崎さん」
 遺失物の届出書類をひと段落させた柴崎さんに、雑談を振ってみる。柴崎さんはちょっと迷惑そうにこちらを振り向いたが、続いた僕の言葉に耳を傾けた。
「先日、寮の近くに野良猫が来たんです」
「……どんな子ですか」
 猫の話題には、結構前のめりに食いついてくれる。僕は膝の上のおもちさんを撫でつつ、言った。
「白と黒のブチ模様の子です。目が合ったらすぐさま逃げようとしていましたが、柴崎さんが教えてくれたとおりにゆっくりまばたきをしたら、なんと向こうから近寄ってきてくれました」
 まばたきが親愛の挨拶になる、と聞いても、こうも上手く伝わるとは思わなかったので驚いた。白黒ブチの猫はしばらく僕に背中を撫でさせ、それからは時々、寮の傍に姿を見せるようになった。
「今までは猫と仲良くなりたいって思っていても、猫にそれを伝える方法が分からなかったんですが、柴崎さんのおかげで伝えられるようになりました。それでやっぱり、相手に伝わるように気持ちを表現するのって大事だなって。そのためにも、相手がなにを伝えたいのか、その子なりの伝え方を分かるようになるのも大事で……」
 昨日、商店街の書店さんで本を買った。『猫の気持ちのサイン』というタイトルで、文とイラストで猫の感情表現をまとめたハンドブックである。
 おのりちゃんや、寮の近くのブチ猫がなにを考えているのか、ちょっとだけでも知りたい。本で勉強して、柴崎さんみたいに猫の仕草に詳しくなれば、もう少しだけ、近づけるように気がしたのだ。おもちさんの短い尻尾が、僕の膝にぽってり落ちている。僕はおもちさんのまんまるな背中に手を置いた。
「ここに喋る猫がいるんだから、本人……本猫? に先生になっていただければ早いんですけどね」
「面倒ですにゃあ」
 おもちさんが欠伸で返す。
「猫心は複雑なのですにゃ。わざわざ解説せずとも分かってほしいものですにゃ」
「おもちさん、今日のおやつ、なに食べたいですか?」
 僕が急に話題を変えると、途端に、おもちさんのだらけきった丸い尻尾が、短いなりにぴんと立った。
「おやつ! 開けたての煮干にかつお節たっぷり大盛りがいいですにゃ!」
 なるほど。この尻尾を立てる仕草は、「ご機嫌」の表現のようだ。
 ハンドブックによれば、尻尾は特に感情がよく出るところらしい。嬉しいときはこうして真っ直ぐ立ち、怯えていれば丸く縮こまる。威嚇するときは膨らむ。飼い主に呼ばれても振り返るのが面倒なときは、返事代わりに尻尾の先だけびたびたさせる。
 尻尾以外にも、なにか探っているときはヒゲが広がり、興奮しているときは瞳孔が開いて黒目がちになる。他にもいろいろな部分が何気ない動きで、気持ちを表す。
 僕にとってはどれも新鮮な発見だが、猫と友達の柴崎さんには当たり前のことなのだろう。多分、猫との共通言語のように理解している。
 なんてことを考えていたときだった。
「こんにちはー! おまわりさん、ヘルプヘルプ!」
 交番の引き戸を開けて叫ぶ、少年がやってきた。見れば、惣菜屋さんの春川くんだ。後ろには、最近仲の良い女の子、リオちゃんもいる。春川くんがカウンターに飛びついた。
「さっきリオがね、街路樹から降りられなくなってる仔猫を見つけたんだ! 俺も助けようとしたんだけど全然届かねえ。今、商店街のおじさんたちも手伝ってくれてるんだけど、どうにもこうにも」
「それは大変だ。助けてあげないと」
 春川くんの通報を受け、僕は倉庫にハシゴを取りに行こうと立ち上がった。膝にいたおもちさんはデスクに降ろす。
 そしてふと、春川くんの背に隠れているリオちゃんに目がとまった。リオちゃんは口を結んで恥ずかしそうに小さくなっていたが、ふいに、柴崎さんに顔を向けた。僕と同じく出動の仕度をしようとしていた柴崎さんだったが、リオちゃんと目が合うと、はたと動きを止める。
 やがてリオちゃんは、ゆっくりと、大きな目でまばたきをした。柴崎さんも、お返しをするように目を閉じる。
 それはまるで、このふたりだから通じ合う、“共通言語”のように思えた。
 つい、その光景に気をとられて、足が止まっていた。ぼんやりしていた僕は、柴崎さんの声で我に返る。
「小槇くん、仔猫の救出には私が行きます。小槇くんはここに残ってください」
「あっ! すみません。お願いします!」
「倉庫に行くなら、ハシゴと捕獲用のネット、あと助けた猫が怪我をしている場合に備えて救護セットも」
「は、はい!」
 弾かれるように、僕は倉庫へと駆け出した。
 倉庫の壁に立てかけたハシゴを担ぎ、頼まれたものを抱えて、柴崎さんに手渡す。彼女は僕が戻ってくるころには装備を整えていて、春川くんの案内に従って交番を飛び出していった。
 交番で留守番をする僕は、半開きの引き戸から差し込む春の日差しに、目を細めた。柴崎さんは話し方がぶっきらぼうだし、表情が乏しくてちょっと怖い。でも、あれだけ猫の気持ちに寄り添える人なのだ。そんな人が真に冷たいとは思えない。
 猫と友達になるコツを僕に教えてくれた、それだけでも、柴崎さんの心の奥の温かい部分を感じられる気がして。
 くあ、と、背中に小さな声が届いた。振り向くと、デスクで丸くなるおもちさんが大欠伸をしている。開いた口から覗く小さな牙を眺め、僕はふと、思い出した。
「そういえばおもちさん、この前、休日の柴崎さんに会ったとき……」
 おのりちゃんを撫でている柴崎さんを発見した、あのとき。
「おもちさん、耳をぺちゃんこにして尻尾を揺すってましたよね。ハンドブックで勉強したんですけど、耳を下げるのも尻尾をイライラさせるのも、不機嫌のサインだそうですね」
 自転車のカゴの中でおもちさんが見せていた仕草は、なんだか記憶に残っている。おもちさんは黄金色の目を僕に向け、デスクに尻尾を寝かせた。
「柴崎ちゃんが猫を愛でるのは、猫としてはとてもとても嬉しいですにゃ。でも吾輩というぷりちーな猫がいながら、別の猫をあんなにナデナデして……。おのりちゃんもおのりちゃんですにゃ。あんな腑抜けた顔で甘えちゃって、野良のプライドはどこへやらですにゃ」
 なるほど、猫心は複雑だ。
 おもちさんが目を閉じて、難しい顔でグルルと唸る。僕はデスクに凭れかかって、苦笑いした。
表紙

おまわりさんと招き猫
あやかしの町のふしぎな日常

  • 著:植原 翠
  • イラスト:ショウイチ
  • 発売日:2021年10月20日
  • 価格:759円(本体690円+税10%)

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