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江ノ島お忘れ処OHANA~最期の夏を島カフェで~

江ノ島お忘れ処OHANA~最期の夏を島カフェで~

ShortStory

「駅伝大会?!」
 年越しを間近に控えたある日の夜。近隣の商店主、佐藤さんから持ち込まれた一枚のポスターに、ぼくは目を見開く。
「全長16キロのコースを、五人ひと組で競い合うレースでな。ひとり2~4キロだから、手ごろだと思うんだけど」
 佐藤さんの言葉に、カイさんがうなずいた。
「翔太、お前もそれくらいなら走れるだろ」
「海沿いのサイクリングロードをみんなで走るなんて、すっごく楽しそうだよね」
 満面の笑みで、翔太が答える。
 ついこのあいだまで、寝たきりだったのに。駅伝なんかに参加して、大丈夫なのだろうか。
「怜、お前は。この日、空けられるか」
 いつだってツンと澄ましている怜のことだ。
 断ってくれるに違いない。そう思ったのに、怜は意外なほどあっさりと受け入れる。
「問題ない。ハル、店、閉められるか」
「二月は閑散期だしねぇ。一日くらい、問題ないと思うよ」
「響希、お前もいけるな?」
 カイさんに問われ、びくっと身体がこわばる。
 病み上がりの翔太や、お店の営業のあるハルさんまで参加するのに……。
 ぼくだけ『出ない』なんて、許されるはずがない。
「足、めちゃくちゃ遅いですけど。それでもよかったら……」
 カイさんは、にっと笑って、ぼくの頭を撫でた。
「こういうのは、参加することに意義があるんだ。速さなんか関係ねぇ。よし、『チームOHANA』参加するぞ!」
 カイさんが参加費を手渡すと、佐藤さんは「まいどー」と受け取り、要項を置いて去っていった。

『速さなんか関係ない』って、いっていたはずだ。
 しかし翌日から、カイさんは早朝トレーニングに出かけるようになった。
 翔太やハルさんまで、いっしょに出かけてゆく。
 仕方なく彼らに合わせ、ぼくは朝五時に目覚ましをかけることにした。
 夜の闇に包まれた真冬の島内。白い息を吐きながら、ジャージ姿のカイさんとハルさん、翔太は準備運動をしている。
 彼らを真似てストレッチを行い、後をついていく。
 階段だらけで平地の少ない江ノ島。
 平地部分を走って、階段を歩く。二つの動作を繰り返すうちに、準備運動になるのだそうだ。
 長い階段を下りて江島神社の朱の鳥居まで出ると、「よし、走るぞ!」とカイさんの号令がかかった。
 三人が、軽やかな足取りで参道を駆け下りてゆく。
「わ、ちょ、ちょっと待ってください……!」
 あっという間に、皆の背中が小さくなってゆく。
 全力で追いかけても、その差を縮めることができなかった。
 無人の参道を一気に駆け抜け、青銅の鳥居の下で、三人はようやく足を止める。
「無理に追いつかなくていい。はぐれる前に、迎えに戻ってくるよ」
 ぜぇぜぇと肩で息をするぼくとは対照的に、三人はまったく息が乱れていない。
 翔太でさえ、涼しい顔をしているのはどういうことだろう。
「焦らずゆっくり来い」
 そう言い残し、三人はふたたび走り出す。弁天橋をまっすぐ駆け抜けてゆく彼らの後姿を眺めながら、ぼくは情けなくその場にへたりこんだ。

 駅伝当日までの二か月間、朝練は毎日欠かさず行われた。
 参加するのは、カイさんとハルさんと、翔太とぼく。怜は一度も顔を見せなかった。
 最初のうちは、参道を走るだけで精いっぱいだったぼくも、なんとか弁天橋を越え、島の外までノンストップで走ることができるようになった。
 盛大に足を引っ張りそうだけれど、なんとか完走できそうだ。
 駅伝大会当日も、カイさんたちは朝練に出かけた。ぼくは本番に備え、睡眠と体力温存を優先した。
 怜も参加する気はないようだ。ぼくが朝ごはんの支度をしていると、寝ぐせ頭のままゆらゆらと揺れながら階段を下りてきた。
「怜、全然走ってないみたいだけど、大丈夫なのか」
 ペットボトルを手にぼくを一瞥すると、怜は眠たそうな声で「問題ない」とだけ答えた。

 全員で朝食を済ませ、駅伝のスタート地点である、鵠沼海岸(くげぬまかいがん)のサイクリングロードの起点に向かう。
 第一走者の翔太は、半袖のトレーニングウェアにたすきをかけ、スタート地点で、楽しそうにぴょこぴょこと飛び跳ねた。
「んじゃ、行ってきまーす!」
 元気いっぱい駆けだした翔太は、寝たきりだったとは思えないほど、すらっとした長い手足でダイナミックな走りをしている。
 周囲を圧倒するその姿に感嘆のため息を漏らしたぼくに、カイさんが「そろそろ移動しろよ」と声をかけた。
 レースでは、翔太、ハルさん、ぼく、カイさん、怜の順にタスキをつなぐ。
 第三走者のぼくは、主催者の運転するマイクロバスで中継地点まで移動しなくてはならない。
 幸いなことに、スマホでレースのようすを見ることができる。
「翔太、全然失速しないなぁ」
 序盤で飛ばし過ぎてバテるかと思ったのに、翔太は最後まで一位で走りぬいた。
 中継地点にたどり着き、マイクロバスを下りる。スマホの画面のなかで、第二走者のハルさんが、たすきを引き継いだ。沿道の女性陣から黄色い歓声が巻き起こる。
 気負いのない軽やかなフォームで、ハルさんは走り続けた。
 海沿いをまっすぐ伸びたサイクリングロード。スピーカーから流れる音声ではなく、少し離れた場所から、わぁっと声援が上がる。スマホの画面から顔をあげると、ちいさくハルさんの姿が見えた。いそいでスマホをポケットにねじ込み、深呼吸する。
 あっというまに近づいてきたハルさんにタスキを託され、走り出す。
 二か月間、毎朝頑張って練習したけれど、運動の苦手なぼくにとって、走るのは苦行以外のなにものでもない。
 翔太とハルさんが周囲を引き離して一位をキープしてくれたのに、ぼくはあっというまに他の走者たちに追いつかれてしまった。
(うぅ、どうしよう……!)
 すぐそこは砂浜。風にあおられて舞い上がった砂が道を侵食し、走りづらい箇所も多い。
 唯一の救いは、景観がよく、海を眺めながら走れることだ。
 ぼくたち第三走者が走るのは、サイクリングロードの終点、柳島まで行って折り返し、江ノ島行きの復路を進むコースだ。
 駅伝に参加しているのは、江ノ島の住民や江ノ島近辺で働いているひとたち。
 サーファーや漁師、ライフセーバーなど、体力自慢の猛者も多く、とてもではないけれどぼくの足では敵わない。
 あっというまに追い越され、第四走者のスタート地点にたどりつく頃には、ぼくは最後尾になってしまった。
 頬に感じる潮風と、賑やかな声援に包まれて、よろよろになりながらタスキを手にすると、笑顔のカイさんが出迎えてくれた。
「よっしゃ、がんばったな!」
 最後尾になったのに。カイさんは、荒い呼吸で上下するぼくの背中に優しく手を添えてくれた。
「行くぜ!」と気合を入れ、物凄いスピードで他の走者を追いかける。
 あっというまに見えなくなった背中。送迎のワゴン車内でスマホの画面を見ると、とんでもないごぼう抜きをしていることがわかった。
 三十組の参加チームのうち、最後尾だったのが、最終走者の怜にタスキを託すときには、七位になっていた。
「すごい……! でも、怜は……」
 一度も練習に参加しなかった怜。きっとカイさんのような、爆発的な速さではないだろう。
「あぁ、ぼくのせいで……」
 申し訳ない気持ちになりながら、ゴール地点に向かう。
 情けない姿をさらしたぼくなのに、顔見知りの島民たちが、「よくがんばったな」とねぎらってくれた。
 ハルさんや翔太と合流すると、彼らもやさしい笑顔でぼくを両側からギュっとハグしてくる。
「頑張ったね、響希くん。特訓の成果が発揮されていたね」
「響希にーちゃ、えらい!」
 どんな反応をしていいのかわからず、肩をすくめたぼくの耳を、歓声がつんざいた。
「お、帰って来たね」
 三人の走者が、競い合うように突き進んでいる。さすがは最終走者、ペースがとてつもなく早い。短距離走のような速さで、全力疾走している。
「え、あれって……」
 ぐんぐんと近づいてくる三人の最後尾が怜であることに気づき、ぼくは手にしていたペットボトルを落としそうになった。
「さすが怜。一気に順位を上げてきたね」
 誇らしげな顔で、翔太が胸をそらす。
「見てなよ。きっと、トップで戻ってくる」
 ハルさんの言葉通り、ゴールが近づくと怜はさらにスピードを速めた。
 いつもどおりの飄々とした顔。それなのに弾丸のような速さで、前を行く二人に勝負をかける。負けじとスピードを上げる、ほかの走者たち。けれども怜は涼やかな表情のまま、彼らを軽々と追い抜いてゆく。
 大喝采のなか、ゴールテープが張られる。青く晴れ渡った空の下、怜はゆうゆうと白いテープを切った。
「なんで……? 一度も、練習に来なかったのに」
 愕然としていると、翔太が笑顔でいう。
「怜はねぇ、隠れてこそこそ練習するタイプだから。努力とか根性とか、嫌いそうに見えて、実は誰よりがんばりやさんだからね」
 おめでとうーとハグで出迎えようとする翔太を、怜はうっとうしそうに押しのける。
「あれ、ハルさんとカイさんは?」
「昼飯の用意だろ。表彰式の前に、みんなで持ち寄った飯を食うらしいから」
 ごくごくと喉を鳴らしてペットボトルの水をあおると、怜はそっけない口調でいった。
 彼が指さす先、砂浜にビニールシートが敷かれ、テントやテーブルが並んでいた。テーブルの上にはおいしそうな料理の数々。豚汁か何かだろうか、大鍋で食材を熱しているひともいる。ハルさんとカイさんは、島のひとたちといっしょに、皆に飲み物を配っていた。
 ベンチコートにくるまって、爽やかな飲み物で喉を潤す。渇いた喉に心地よい、はちみつレモンスカッシュだ。全身が一気にクールダウンする。
「たまにはこういうのもいいだろ」
 カイさんにいわれ、ちいさく頷く。
 無様な走りを見せたぼくを、OHANAの皆も、島の皆も、誰も責めたり、ばかにしたりしなかった。
「お前ンとこ、足の長いのばっかそろえやがって。ずるいぞ!」
 と文句をいうひともいたけれど、彼らはそろって笑顔で、全然怒っている感じがしない。
 いつだってまわりと競いあい、負けたら自分の存在価値まで失うような世界で、ぼくは生きてきた。
 こんなふうに、勝敗を笑って流せる世界。
 ぼくの知っている世界と……同じ世界とは思えない。
 限界まで走って、力尽きて、おいしいものを食べて、みんなで笑いあう。
 レースに勝ったって何にもならないのに。それでも毎朝早起きして、その日に向けて己を鍛えてゆく。
 無駄で、無意味で、だけど――それは、すごくまぶしいことだ。
 そういう輪のなかに、自分がいられることが、なんだかとても嬉しく感じられる。
「疲れたぁ……!」
 満腹になった腹をさすりながら、翔太がビニールシートに寝転がる。
「響希くんも、ちょっと横になれば?」
 ハルさんに促され、ぼくも翔太の隣に寝転がってみた。
 雲ひとつない、抜けるように青い冬空。まばゆさから逃れるように、ぎゅっと目を閉じる。
 潮騒の音と、周囲のざわめき。あんなにも怖かった、他人の声。
 だけどここで聞こえる声は、みんな、やわらかい。ぼくを傷つけたりしない。
 気づけば、頬を涙が伝っていた。
「響希にーちゃ、だいじょうぶ?」
 翔太が、心配そうにのぞきこんでくる。
 彼の視線を遮るように、ぱさり、と誰かがぼくの顔に向かってタオルを投げてくれた。
 タオルから、かすかに、怜の匂いがする。
 しばらく休んだ後、タオルで頬をぬぐうと、ぼくは勢いをつけてビニールシートから立ち上がる。
 その場には、もう怜の姿はなかった。
「そろそろ行こうか、表彰式がはじまるよ」
 ハルさんに誘われ、ぼくは翔太やカイさんとともに、砂浜の上に即席で作られた表彰台に向かう。
 脳裏に、かすかにピアノの音が聴こえた。
 父の奏でる、ショスタコーヴィチの『24のプレリュードとフーガ 第1番 Op.87-1』。
 なぜだろう、その曲がとても明るく爽やかな音色に聞こえた気がした。
表紙

江ノ島お忘れ処OHANA
~最期の夏を島カフェで~

  • 著:遠坂カナレ
  • イラスト:カズアキ
  • 発売日:2021年5月20日
  • 価格:770円(本体700円+税10%)

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