ことのは文庫

『朝日町卓(あさひまち・すぐる)の業務日誌』

「朝日町さんっ。今週末、部署内で懇親会があるんですけど、よろしければご一緒にどうですか?」
 週の始まり、月曜日。
 総務部の菊池さんが社内報を届けに来たついでに、甘いお誘いをしてくれた。
「声掛けてくれて、ありがとう。金曜は打ち合わせが立て込んでるから、行けそうならまた、あらためて返事するよ」
 得意の営業スマイルで当たり障りのない返事をすれば、菊池さんは頬を赤く染めながらフロアを去っていった。
 菊池さんは入社一年目の可愛らしい女の子で、男性社員から人気がある。
 そんな彼女に連絡先を渡されたのが、半月前だ。
 その後、何度か社交辞令的なメッセージのやり取りをしたものの、特に発展せぬまま――というか、意図的に発展しないようにしながら、今日までやり過ごしてきた。
(しかし、総務部の懇親会に、企画営業部の俺が行くっておかしいだろ)
 小さな後ろ姿が完全に見えなくなったあと、コーヒー片手に短く息を吐く。
 もちろん懇親会は口実で、
『よろしければ、このあとふたりで飲み直しませんか?』
 という、お決まり展開を期待されているんだってことは、雰囲気から察していた。
「はぁ~~…」
 今度は、本格的なため息が口からこぼれた。
 フロアの隅に置かれたコピー機に片手をつき、思わず天井を仰いでしまう。
(角が立たない対応をするように心がけてはいるけど、それも長引くと、だんだん疲れてくるんだよな)
 なにより、菊池さんが総務部っていうのも面倒だ。
 思い出すのは、ひとつ上の外原さんの存在。
 外原さんは菊池さんと同じ総務部に所属している美人で、俺は彼女からも約半年前に連絡先を渡されていた。
 ほかにも、思い出せる限りで言えば、人事部の彼女と、制作部の彼女と、編集部の彼女と……。
 有り難いことに、社内の何人かの女性からアプローチをされている。
 それもこれも、俺が自他ともに認めるハイスペック男子だから仕方がない。
 批判されるのを覚悟で言うと、正直なところ、物心ついた頃から今日までモテなかった時代がないのだ。
 だからまぁ、その点においての処世術はそれなりに身につけている。
(残念ながら、俺は社内恋愛だけは絶対にしないって決めてるんだよね)
 心の中でつぶやいて、飲み終わったコーヒーのカップを近くのゴミ箱に落とした。
 そう。会社はあくまで仕事をする場で、恋愛をするための場所じゃない。
 彼女たちは最初から、恋愛対象外なのだ。
 仕事とプライベートは、できる限り分けていたい。
 公私混同は言語道断。彼女を作るなら社外で。
 近場の色恋沙汰ほど面倒なことはないと、俺はモテ人生を二十四年歩んできた中で、嫌というほど学んでいた。
(さて、さっさと仕事を片付けるか)
 と、長すぎる脚を前に出してデスクに戻ろうとしたら、
「あ、朝日町! ここにいたんだ」
 聞き慣れた声に名前を呼ばれた。
 振り向くと同期の西富がいて、思わず肩の力が抜ける。
「どうした、俺に何か用事か?」
「いや、大したことではないんだけど。これを、朝日町に渡したくって」
 そばまで歩いてきた西富はそう言うと、手に持っていた小さな紙袋を胸の前に掲げた。
 中を覗いてみると〝赤いものが入った手のひらサイズの瓶〟が入っていて、思わず首をかしげてしまう。
「なんだ、これ?」
「ふふっ。これは、苺のコンフィチュールだよ」
「苺の……コンフィチュール?」
 馴染みのない言葉に、つい怪訝な顔をしてしまった。
「コンフィチュールっていうのはね、一口食べたらそのおいしさに感動して虜になる、魔法の食べ物なの」
 まるで、何かのキャッチフレーズみたいだなと思った。
 だけど西富の表情があまりに誇らしげだったから、コンフィチュールにほんの少しだけ興味が湧いた。
「ってことで、はい、どうぞ」
「サンキュ。っていうか、これ、本当に俺がもらってもいいのか?」
「もちろん! 朝日町のために買ったんだし!」
「西富が俺のために何か買ってくるって初めてじゃね? どういう風の吹き回しだよ」
「それは……。ほ、ほら。朝日町、この間、彼女と別れたって言ってたでしょ。だからまぁ、これ食べて元気出してって意味だよ」
 思わず疑いの眼差しを向けてしまったのは、そう言った西富がわざとらしく目をそらしたから。
(ああ、でも、そう言えば少し前に、西富とそんな話をしたんだっけ)
 付き合ったばかりの彼女と二ヶ月持たずに別れたって話。
 それで西富には『ほんと、毎回彼女と長続きしないよね』って呆れられたんだ。
 また自分で言うのもなんだが、ルックス良好、仕事もできる、人当たりも良いこの俺に弱点があるとするのなら……そう、付き合った恋人と長続きしないってことだろう。
「……おいしさが長続きするコンフィチュールを食べれば朝日町も、次の彼女とは長続きするかもだし」
「は?」
「う、ううんっ。なんでもない」
 小さく首を横に振った西富は、あらためて、苺のコンフィチュールが入っている紙袋を俺の前に差し出した。
 たとえば今、紙袋を差し出しているのが菊池さんや外原さんだったら、それなりの色気や好意を感じ取ってしまうだろう。
 だけど西富からは、一切そういうものを感じたことがない。
 それはそれで問題かとも思うが、見返りを求められないやり取りに、俺はいつも心地よさを覚えていた。
「じゃあ、お言葉に甘えて。有り難く、頂戴するわ」
 紙袋を受け取ると西富は、
「食べたら、感想教えてね!」
 と、花が開いたような笑みを浮かべた。
 その笑顔に、ほんの一瞬、心が揺れた気がしたけれど。
 間違いなく気のせいだろうと、自分自身に言い聞かせた。
「そういえばさ、お前、週末の予定は?」
「週末? ん~、何かあったかな」
「ヒマなら、飲みに行こうぜ。コレのお礼で一杯おごるし」
 受け取ったばかりの紙袋を持ち上げてみせたら、
「お礼とかは別にいらないけど」
 と、西富は至極当然のことのようにつぶやく。
「朝日町と二人きりで飲みに行くと、会社の女子たちに睨まれるから嫌なんだよね」
「そんなん、別にどうでもよくね?」
「いやいやいや。あんたはよくても面倒くさい目に遭うのは私だし。そもそも私、今月もノルマが未達成だから……週末に飲みに行くとか、そんな余裕は普通にないかも」
 苦笑いをこぼした西富は、長いまつ毛を静かに伏せた。
 俺はとっさに、西富の頭に手を伸ばそうとして――…。
 すんでのところで我に返って、あわてて手を引っ込めた。
「ま、まぁ、あまり無理はするなよ」
 おいおいおい。俺ってば、何、頭を撫でようとかしちゃってんの?
 それ、ただの同期がしていいことじゃないだろ。
 ……あれ? 別にただの同期でも、頭ポンポンくらいはセーフだったりする?
「朝日町、いつも心配してくれてありがとね」
「え……? あ、お、おう」
「でも私は、無理をするぐらいがちょうどいいと思うんだ。このままじゃ、同期のあんたに差をつけられる一方だし」
 そう言った西富は、両手でガッツポーズをしてみせた。
 今の笑顔に、陰りはないように見える。
(ああ、俺――…こいつの、こういうところ、好きなんだよな)
「じゃあ、今日もお互い頑張ろうね!」
 西富が俺の二の腕をポンと叩いた。
 そのあと踵を返すと、ただの一度も振り返ることなく行ってしまった。
(やっぱり、頭ポンポンくらいはセーフだったのか?)
 たった今、叩かれた二の腕に触れてみる。
 その場に残されたのは俺と、紙袋に入ったコンフィチュール。
 そして、僅かな胸のモヤつきだった。
「コ、コホンッ」
 なんとなく、咳払いなんてしてしまった。
 手持ち無沙汰になった俺は紙袋から瓶を取り出して、蛍光灯の明かりにかざした。
 瓶の中には赤い苺がぎっしりと詰まっている。
 手のひらにのせて、蓋をそっと開いてみたら、会社には不似合いな甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐった。
「……とりあえず、週末の懇親会の誘いは断るか」
 開けたばかりの瓶の蓋を閉めて、小さく笑う。
 今日は、月曜日。
 今週も、自慢の同期としてあいつに追いかけてもらえるように、気張っていこう。
表紙

キライが好きになる魔法
湘南しあわせコンフィチュール

  • 著:小春りん
  • イラスト:烏羽雨
  • 発売日:2022年10月20日
  • 価格:792円(本体720円+税10%)

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