特別編・白き山に露結びて
九月も第二週末、暦の上では『白露』などと呼ばれる季節になった。
散々苦しめられた夏の暑さもようやく落ち着き、朝晩の風が心地よくなってきた――と、数日前には確かに思った。……そんな気がする。多分。
ぶり返した暑さに溶けた脳みそで己の記憶を疑い、宮澤美郷は畳の上にひっくり返ったまま、ちゃぶ台の上に乗ったデジタル電波時計を見遣った。大学の卒業記念品で、気温計も付いている。
――摂氏、三十三度六分。
「……見るんじゃなかった」
余計に暑い気がしてくる。
下宿している古民家の離れに、エアコンはない。時刻は午後二時を少し回った頃、中庭に面した掃き出し窓を全開にしたところで、扇風機が送って来るのは生温い風ばかりだ。長く伸ばしている髪が湿った肌に張り付いて、どうしようもなくうざったい。
身に染み付いた習慣で、起床と同時に他人様に見られて困らぬ格好に着替えている。だが正直、長ズボンが暑くて仕方ない。半袖シャツも汗で張り付いている。
宮澤美郷、二十二歳。市役所勤務。特殊自然災害係に所属する専門職員――いわゆる公務員陰陽師である彼は、休日昼間の自室で煮えかけていた。
「おう、生きてるか貧乏公務員」
そう言って、掃き出しの網戸を開けたのは、黒いタンクトップを着たチンピラだった。
ツンツンと毛先を立てた脱色金髪にシルバーピアス、そして極めつけは薄く色の入ったサングラスという、見事なチンピラルックスの青年は、実は美郷の大家である。狩野怜路、年齢不詳。推定二十三、四歳という彼は、広島県巴市郊外の山里に大きな古民家を所有する美郷の大家であり、記憶喪失のまま天狗に拾われて育った山伏という、いささか情報過多な人物だ。
「お前いま何か、他人の顔見てくだんねェこと考えただろ」
サングラスの奥から、特徴的な色の双眸を光らせてチンピラが凄む。緑色に銀が差し込む彼の両眼は「天狗眼」と呼ばれ、妖魔もののけの類を、うつし世の物事と全く同じ濃度で映してしまう。ゆえに、それを覆って封じるために術を施したサングラスをかけているそうだが、髪型もファッションも全力でチンピラ方向に寄せているためただの趣味にしか見えない。
「……いや、なんか改めて、怜路って情報過多だなって……」
思っていたことを素直に白状すると、心底呆れた表情で、濡れ縁に上がった怜路が美郷を見下ろした。
「テメーにだけは言われたく無ェわ。俺ァお前以上に情報過多な奴なんざ見たことねーよ」
言われて確かにそれもそうか、と思い直す。美郷の過去も、大概に情報量が多い。その諸々の都合で、つい先日心配をかけたばかりだ。頷くついでに、畳にへばりついていた体を起こす。
「それで、どうしたの。今日って休み? 遅番?」
怜路の本業は個人で仕事を受ける「拝み屋」だが、普段は市役所近くの居酒屋でアルバイトをしている。早番の日ならばそろそろ出かける支度をする頃合いだ。この家から巴の市街地までは車で二十分程度かかる。
「休み。んで、おもしれーモン出してきたから付き合えや」
ニヤッ、と音がしそうなほど綺麗に口の端を上げて、緑銀の眼を細めた怜路が笑った。
怜路が「それ」を職場で貰ったのは、そろそろ八月も終わろうかという頃だった。
今年の夏祭りや盆祭り、花火大会などがひと段落して気候も落ち着き、そろそろ「それ」が要らなくなる時期で、アルバイト先の店長が、今年を最後に店を畳むというライバル店から譲り受けたものを押し付けられたのだ。
「エッ、何これ凄い。業務用でしょ? このかき氷機」
暑さに弱い貧乏下宿人が、ヨロヨロと庭に出て来て驚く。
彼の視線の先では、ふわふわのかき氷が作れるという手動の業務用かき氷機が、狩野家母屋の縁側にどんと置かれて出番を待っていた。
宮澤美郷は温和に整った中性的な面立ちの、白い肌と長く真っ直ぐな黒髪が特徴的な美青年である。造作は大変整っており、しゃきっとした顔をしていればご婦人がたが放っておかないはずなのだが、大抵へにゃへにゃと頼りなさそうなアルカイックスマイルを浮かべているためイマイチ目立たない男だった。今などは暑さに半分溶けかけて、普段はきっちりとひとつに括っている長い髪も乱れ、どちらかといえば陽を浴びた幽鬼のような有様だ。
「おうよ、まーた店長にがらくた押っ付けられてなァ。もう今年は出番ねーかと思ったけど、昨日あたりからあっついからよ。オメーまた茹ってんじゃねーかと思って出してきた。コイツばっかりは、最高に暑くねーと美味くも無ェからな!」
ちなみにかき氷シロップも何種類か用意した。驚きと物珍しさに目を丸くして、美郷が真っ青なペンキで塗装されたかき氷機の前にしゃがみ込む。その反応に満足して、怜路は得意げに両腕を組んだ。
「板氷買って来てあっから、浴びるほど食わしてやらァ。しっかり体冷やしやがれ」
この下宿人は暑さが苦手だ。大家として、エアコンを買ってやれるほどの甲斐性はない(そして下宿人の方も自分でエアコンを買う余裕のない貧乏人だ)が、どうせこの暑さも一時的なものだろう。体の内側から涼をとって乗り切ってもらうことにする。――べつに夏の終わりに処分セールされていた色とりどりのシロップを、買い集めてみたくなったからではない。事実買い集めてしまったが、先に「下宿人に氷でも食わせよう」と思ったら視界に入ったのだ。思考の順序は重要である。
「板氷って……二人で食べれる量なの、それ。おれ、甘いもの食べれないからあんまり手伝えないと思うんだけど……」
甘くてふわふわで色とりどりのかき氷を作らんと張り切っている怜路とは裏腹の、不安そうな表情で美郷が怜路を振り返った。確かにこの下宿人は甘いものが食べられない。色々と駄目なことが多い、面倒臭い人種である。そしてそれは美郷の持つ、怜路以上に奇天烈な過去のせいだ。――この男に「情報過多」と言われるのは、実に不本意である。
「ちゃんとお前でも食えそうなシロップも用意してあらァ。塩かけて食えなんざ言わねえから安心しろ」
えぇ、と漏らす下宿人を引き連れて母屋に入る。古い農家であるこの家は、玄関を入ると広い土間だ。サンダルのまま、少しヒンヤリと土の匂いがする土間を横切って、奥の台所に入るとすぐに冷蔵庫が鎮座している。そこから冷やしたシロップと器と匙を取り出して美郷に持たせると、怜路は十数分土間の端に置いて緩ませておいた板氷を抱えて、意気揚々と庭へ引き返した。
「イチゴ味、レモン味、メロン、ブルーハワイ、グレープ、オレンジ、ピーチ……? あっ、練乳まである」
小さなパウチ型のシロップを、ひとつひとつ読み上げながら美郷が縁側に並べていく。傍らでかき氷機に板氷をセッティングしていた怜路は、自分の手元にあった最後のひとつのシロップを美郷の目の前に突き出した。
「おう。んで、コイツがお前用」
「――瀬戸内レモンのすっぱい蜂蜜レモンシロップ。……疲れた体にクエン酸って、ホントすっぱそうだな」
「こン中じゃ一番の高級品だ、ありがたく味わえよ」
パウチを受け取ってまじまじと眺める美郷に、怜路は重々しく言い含めた。「ははあ、」と適当な返事がそれに答える。冷えた器をかき氷機の下に置いて、怜路は「よっしゃ」とハンドルを握った。
「んじゃ、行くぜェェェェェ!!」
しゃりしゃりしゃりしゃりしゃり。修験者として鍛えた腕力を使って、最高速度でハンドルを回す。ふわふわというだけあって、涼やかで軽やかな音と共に、白い綿のような氷がガラスの器の上に降り積もって行く。「うわあ、凄い」と隣で素直な歓声が上がり、気を良くした怜路は更にスピードを上げた。
あっという間に器の上には純白の雪山が出来上がる。一旦それを押して下に詰め、更に氷を積もらせた。積んでは詰めを更にもう一度繰り返し、まさしく「山盛り」になったところで器を取り出す。
「ホイ、お前の分」
土蔵の奥に眠っていた、前のこの家の所有者のものらしきガラスの器は、恐らく本来は素麺を盛るための鉢だ。小ぶりなどんぶりほどの鉢に山盛りの氷を見て、先ほどとは違う声音で「うわあ」と言った下宿人の持つかき氷に、怜路は勝手に蜂蜜レモンシロップをかける。ほのかに蜂蜜色の、ほとんど色のないシロップだ。だが本物のレモンと蜂蜜のゆたかな香りがふんわりと辺りに広がる。そこへ匙を突き差して、さあ食えと怜路はふんぞり返った。
「イタダキマス」
おそるおそると言った風情で、ひと匙口に含んだ美郷が「すっぱ!」と眉間にしわを寄せて目を細める。怜路もパウチの口から一滴シロップを指に垂らして舐めてみた。確かに酸っぱい。クエン酸の味だ。
「でも美味しい」
どうやら酸味には耐性があるらしく、お気に召した様子の下宿人は、そのまま淡い蜂蜜色の雪山を崩し始めた。その姿に満足して、さて、と怜路は気合を入れる。今度は自分の分だ。せっかく七種類シロップを買ったのだ。レインボーかき氷を作りたい。
再び全速力でハンドルを回し始めた怜路の隣で、氷を食べていたはずの美郷が何事か独り言を言い始めた。
「わっ、なんで? 待ってくれ、落ち着け何もいないだろ、待って待って」
何事かと手を止めて美郷の方を見遣った怜路に背を向けて、かき氷を縁側に放り出した美郷が立ち上がる。背中を丸めたまま、そそくさと母屋の向こう側へ隠れてしまった美郷に、怜路はヤレヤレと溜息を吐いて再び氷を見下ろした。一.七キロのブロックはまだ大して減っていない。
「……まあ、確かに二人で食うにゃちょっと多いわな」
ひとつ呟いて、怜路は器を探しに母屋へと引っ込んだ。
美郷は「ペット」を飼っている。飼い始めて五年目になるソレを「ペット」だと思うようになったのは、実はつい最近のことだ。――それまではずっと、抱え込んでしまった「厄介者」だと思っていた。
突然現れたソレを怜路から隠すように抱え、美郷は母屋の西側にある薄暗い中庭に駆け込む。
「なんで出て来ちゃったんだお前……! こんな暑い真昼間なんて嫌いだろ!?」
むずかるように美郷の体から飛び出して、シャツのボタンを駄目にした「ペット」を両手で掴んで目の前に持ち上げ、美郷は嘆き半分に問い質す。対する「ペット」――白蛇はぴるる、と紅い裂舌を出した。
真っ白な蛇を吊し上げ、美郷は機嫌悪く眉を顰める。蛇の方は美郷の腕に尻尾を巻き付けて、ゆらゆらと頭を揺らしている。反省の様子はない。
白蛇は水妖の類らしく、普段は暑い時間帯を大変嫌う。一体何事かと首を捻る美郷の背後で、カン、カン、と金属を打ち鳴らす音が響いた。振り返ると、母屋の陰から黄色い頭が覗く。
「しーろたさんも、氷食うか?」
呑気な問いと共に、金属製のボウル一杯の雪山が差し出された。普通のかき氷の十杯分近くあるだろうか。白蛇が反応して頭をもたげる。美郷越しに雪山を抱えた怜路を確認して、白蛇はじたばたと暴れはじめた。
「エッ、氷に反応したのかお前」
美郷の拘束を逃れようとする白蛇を、掴んで手繰りながら美郷は怜路の方へ歩み寄る。
「冷気に惹かれたんだな。よしよし、シッカリ冷えろよ白太さん」
ペットの名前は「白太さん」。白い蛇の白太さんである。怜路にはネーミングセンスを疑われたが、美郷はなかなか気に入っている名前だ。ボウルの目の前に辿り着いた白蛇は、ぴるぴると舌を出して氷の冷気を確認すると、おもむろに鎌首をもたげた。どうするのかと見守る二人の間で、白蛇が鋭く動く。
――もすっ。
白蛇の頭が、勢いよく真っ白なかき氷に突っ込んだ。
そのままもぞもぞとボウルに入ってゆく白蛇を、美郷は唖然と見守る。怜路の方はどうやら狙い通りだったらしく、「いいぞいいぞ」と囃し立てていた。白蛇はすっかり雪山の下に潜り込んで、溢れたかき氷がいくらか地面に溶ける。
「さーて、白太さんはこれで良し。んじゃあ俺の分を改めて作るか!」
美郷に白蛇ボウルを押し付けて、ご満悦の表情で怜路が庭へ引き返す。されるがままにボウルを受け取った美郷は、ボンヤリと両手を冷やす雪山を見下ろした。その端から、赤い目をした白蛇の頭がヒョッコリ顔を出す。
「…………気持ちよさそうだね、お前」
ぴるる、と返事するように白蛇が舌を出した。
白蛇ボウルを抱えた美郷が庭に戻ると、ちょうど怜路が意気揚々と氷の山に七色のシロップをかけているところだった。色が変に混じらないよう、器用にグラデーションを作っている。
「おれの氷溶けちゃったなあ」
すっかり溶けてベシャベシャになった自分のかき氷の隣に腰掛け、美郷は白蛇ボウルを縁側に置いた。ボウルの結露があっというまに床板を濡らしていく。同じく結露で濡れた手で、溶けたすっぱいかき氷を持ち上げ、美郷は喉に流し込んだ。きんと冷えた、甘酸っぱい氷水が喉を流れて体を冷やしていく。
レインボーかき氷を完成させたらしい怜路は、スマホを取り出してどうやら記念撮影のようだ。
「今年はもうこれで終わりだろうけど、来年も活躍しそうだね。お店で使えば良いのに、それ」
レインボーかき氷は大変見栄え良く出来ており、夏季限定メニューにでもすれば客が呼べそうだ。
「馬ァ鹿、ウチの店にかき氷喜ぶような可愛げのある客なんか来ねェよ。ビールしか頭に無ェおっさんばっかだわ」
納得行く写真が撮れたらしく、怜路はかき氷を持ち上げて七色の山に匙を入れる。
「来年はお前が自分で、白太さんに氷削ってやれよ。ほら、今から練習だ練習」
ハイスピードで氷の山を崩しながら、怜路がまだ数センチ氷の残るかき氷機を指差した。たしかに、もう少しちゃんと「かき氷」な状態のものが食べたい。美郷は自分が空にした器をセッティングして、かき氷機のハンドルを握る。
「結構これ……重労働……!」
糸車か何かのように、怜路は軽く回していたはずなのだが。せっかく引いていた汗が噴き出す。怜路が呆れの溜息を吐いた。
「鍛えろモヤシっ子」
「るさい!」
野生児の怜路とは比べるべくもないが、モヤシと言われるほど体力に自信がないわけでもないのだ。単に、暑いのが悪い。汗だくでハンドルを回す美郷の隣で、あっという間にレインボーかき氷を腹に収めた怜路が立ち上がった。
「じゃーな、頑張れよ」
薄情者の大家が、ポケットから煙草を取り出して庭の隅へと歩き出す。
「――来年にゃ、ソイツもお前のもんだ。気張れやー」
このままかき氷機を美郷にくれるというのだろうか。
ほんの少し言い方が引っ掛かったが、視界の端で動いた白色に気を逸らされた。白蛇がすっかり氷の溶けたボウルから這い出して来る。
「白太さん……?」
どうしたんだ、と思いながらハンドルを回している美郷の真下へ、白蛇はやって来る。そして――。
もすっ。
「あーーーっ!! お前っ! それはおれの……!!」
美郷が食べるはずだった氷の山に、頭を突っ込んだのであった。
おしまい。