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ことのは文庫

『西野さんの恋』

「なあああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
 土曜の朝。すがすがしい秋空が広がる公園に、盛大な叫び声が響き渡る。
 ちょうどあたし達の前を通り過ぎた散歩中のおじいさんは驚いて飛び上がり、道のずっと先を散歩していたご夫婦もぎょっとしたように振り返るほどの声。
 叫んだのは瀬川さん。あたしと同じベンチの端っこに腰かけた瀬川さんは、口をパクパクさせながらあたしをガン見。周囲から軽く不審者扱いされているけれど、取り繕う余裕もない瀬川さんが新鮮で、あたしとしては大満足。
 仕方ないから軽くフォローしておこうと、とりあえず、周囲の皆さんににっこりと微笑んでみせると、それだけでみんなホッとしたように歩き出した。自分の笑顔が人に対してそれなりに効果的だとわかっている。ま、この原則のあてはまらない例外はあるんだけど。
 まさにその例外である瀬川さんは、ようやく自制心を取り戻し、声をひそめた。
「な、なにを言っているんだ西野さん。君、本気で言っているのか!? 疲れているんじゃないか?」
 そう言いながら瀬川さんはきょろきょろと視線をさまよわす。
 近くに病院でもあったらあたしを連れていきそうな勢いだわ。
 いいじゃない。
 改めて宣言して見せましょう。
「ほんき、ほんき、まじで本気。あたし、瀬川さんのこと好きだわ」
「なああああああああああああああああああああああああああああ」
「……なによ、もう一度同じやり取り繰り返すの? あと2回くらいまでならあたしも許容範囲だけど」
 瀬川さんは相変わらず口をパクパクさせながらも、顔の前に人差し指を1本立ててみせる。どうやらあと1回ってことらしい。
 あたしが何したかっていうのは、もう本当に言葉通り、お慕いしている気持ちをまっすぐに伝えてみた。
 で、叫ばれた。
 告白して叫び返されるなんて、さすがのあたしも初めての経験だわ。
 
 全力をつくしたあのカレー予備校での発表会の日、あたしは宣言したんだ。
『このイベントが終わったら、瀬川さんに告るんだ』
 そうは言っても、タイミングってものがあるじゃない? あたしだって、そこまで鉄のハートを持ち合わせていなくって、どうしようかと考えているうちに、告白するどころか会うきっかけも見つけられないまま、残暑はすっかり過ぎ去って、秋が深まり冬の気配もあらわれ始めた。
 そして今日。11月の土曜日。2カ月以上ぶりにあたしは瀬川さんと出会い、都内の公園のベンチに並んで腰を下ろしていた。『仲良く』と言いたいところだけど、あたしもそこまで図々しくはない。
 朝の公園を訪れている理由はちっとも甘いものじゃない。
 あたしと瀬川さんは、両手どころか体全体をつかってお鍋とスパイスが入った鞄をいくつも抱えて、ただひたすら中村くんが戻ってくるのを待っているところだった。告白して叫び返されるのも初めての経験だったけど、瀬川さんからしてもこんなに荷物を抱えて身動きとれない相手から「好きだ」なんて言われたのは初めてに違いないと思う。

 少しだけ時間を戻させていただくと、ことの発端は昨日の夜だった。
「お前らの助けが必要なんだ」
 前にも聞いたことのあるフレーズで中村くんがあたしに電話をかけてきたのは昨夜の21時過ぎ。お肌との対話を大切にしているあたしとしては、そんじょそこらの要件では邪魔されたくないお風呂上がりの大事な時間だったけど、久しぶりの連絡にうっかり通話ボタンを押してしまった。
 で、すぐ後悔した。
 中村くんからのお願いって……、嫌な予感しかしない。
「……電話なかったことにしてもいい? じゃ、切るねー」
「待った待ったぁっ!! 頼むよ。松本が……。あいつが大変なんだよ」
「松本っちが?」
 通話終了ボタンを押したい欲求をなんとか押し殺し、スピーカに切り替える。これならお肌メンテを続けながら話を聞ける。美は一日にしてならず。
「西野ちゃんも知ってるだろ? 明日、代々林公園でカレーのイベントが開催されるの」
「知ってる知ってる。店長も参加するって言ってた」
 店長というのは、あたしが勝手に師匠としているキーマカレー店の店長さん。ここのカレーは本当に美味しくてリピーター続出の人気店。そんなお店も出店するほどのイベントだ。あたしも、そのイベントは覗いてみようと思っていた。
「俺らも出店させてもらえることになったんだよ」
「なにそれ、すごくない? 主催者脅して権利もぎとったの?」
「俺の最強くじ運で一般枠を勝ち取った」
「すごっ! 倍率すごかったってきいたよ。中村っち、まじでそういう運強そうだよね。松本くんからも奪ってそう」
「相変わらず失敬だな。まぁ、残念ながら否定できない。あいつ、インフルエンザにかかって寝込んでんだよ」
「えぇっ? だいじょうぶなの?」
 一人で熱を出して寝込んでいるときほど心細くなるときはない。
 なんなら何か作って家まで届けてあげようか。
「いやいや、あいつは大丈夫だ。薬が効いて熱も下がったみだいだし。今回のイベントの試作用に買い込んだ食材もたっぷり残っているみたいだから、食料面でもほっといて問題なし」
「ほっといてもって……。だって松本っちが大変だって言ったの自分じゃん。……ん?」
 イベントは明日。
 松本くんはインフルエンザ。
 中村くんは一切料理ができない。
「……じゃあ、誰がカレー作るの?」
 再びの嫌な予感。
 11月とはいえ、晴天の日は日差しが強い。
 そんな中、外でカレー作るとか、悪いけどあたしのスタイルじゃない。
「作り手はイベント出品のカレー食べ放題だし。準備時間に全部まわれるぜ」
「いえ、結構です」
 きっぱりとお断りさせていただいた。
「くそ~、だめかぁ。まぁ、成宮ちゃんと西野ちゃんはダメもとだったから仕方ない。夜にごめんな」
 さっぱりとした中村くんの声に、ちょっと罪悪感がくすぐられる。
「まぁ、一時間とか……だったら手伝えなくもないかな。本当に誰も捕まらなかったら店長にヘルプ頼んでもいいよ」
「ふたりでやればなんとかなるか。できればもうひとりほしかったんだけど」
「ふたり?」
 ま、まさか。松本くんをむりやり引っ張り出すつもり?
「瀬川だよ。カレー食べ放題をちらつかせたらあっさり釣れた」
「行く。何時?」
「ん?」
「行ってあげる。手伝いに」
 降ってわいた再会のチャンス。
 つかめるものはとりあえずつかんでおくべきでしょ。

 中村くんから持参するように頼まれた鍋、調理器、スパイス。ついでに店舗の飾りつけに役立ちそうなお皿や布をキャリーケースに詰め込んで、会場の公園を目指してよろよろと歩いていたら、あたし以上に限界ぎりぎりまで荷物を抱えて歩く人の姿が見えた。
 瀬川さんだった。
 きっとなるちゃんだったら、駆け寄って「大丈夫ですか? 手伝います!」って迷いなく言えるんだろうなぁ。あたしも駆け寄ったところまでは一緒なんだけど。
「ねぇ、瀬川さん。鞄のお化けに転職したの?」
 ときめきとか挨拶抜きに突っ込まずにはいられなかった。
 だって瀬川さん、まず左肩から斜めにかけた鞄、両手にひとつずつスーツケース。まあ、ここまでだったらあたしとそうは変わりないんだけど、さらに黒のビジネスバックを右肩から斜めにかけ、極めつけは背中に背負った巨大なカーキ色、っていうか土色? のバックパック。バックパック以外はヨーロッパ系のブランドなところが逆に痛々しい。デザイナーは絶対に想定していなかった組み合わせだと思う。
「あたしはそこまで世間を捨てられなかったわ」
「言っておくけど、背中のノーブランドのリュックは俺のじゃない! 中村に押し付けられたんだ」
 突っ込みたかったのは別にそこじゃないけど。
 久しぶりの再会に、「おぉ~、久しぶり。元気だった?」なんてほほえみあうこともなく、いいから聞いてくれたまえ、と瀬川さんは嘆きだした。
 瀬川さんが公園にむかって歩いていると、道の先から猛烈な勢いで中村くんが走り戻ってきたそうだ。イベント参加者に配られたチケットを忘れたからとりにもどる、ついては大切な食材を預かってくれ、と荷物を託された。
「今どきチケット忘れたからってイベント出店できないなんてことあるの!?」
 驚きのアナログ対応。
「出店自体は問題ない。本人確認できればなんとかなる」
「じゃあ、なんでわざわざ?」
「出店者は一般参加者の入場前から各店舗で食べ歩きが許されている。そのときにチケットを見せる必要があるんだよ。それだけは厳格に枚数管理されているらしくて予備はもらえない」
 そんな大事なものを忘れるなんて、と瀬川さんは眉をしかめる。
 食べ歩き。
 そのためにだけに、こんなによろめきながらも、人の荷物も引き受けるなんて。
 なんて……。
 なんて、カレー馬鹿なんだろう……。
 そうだ、彼はそういう人だった。本当にこの人でいいんだろうか……。さすがのあたしもちょっと自分の気持ちを疑った。あの時感じた「好き」な想いって、いわゆる「吊り橋効果」的な非日常の高揚感を取り違えたんじゃないかって。

 公園の中にあるイベント会場入り口近くのベンチに腰を下ろすころには、ふたりとも息も絶え絶えだった。
「ねえ、こんなに汗だくで荷物運んであげているあたしたちが調理もするんだよね?」
「中村をコントロールできているってことを考えると、松本のやつとんでもないな」
「今度会ったら拝んでおく。つーか、だれか中村っちに勝てる人はいないわけ? 瀬川さんならいい線行くと思ったんだけど」
「いや、次元が違う。俺が知っている限り可能性があるのは鹿野さんだな。値引きで中村を負かしたことがあるらしいからね」
「まぁ、あの人はあの人でパワーがすごいからね」
「他に、あいつに勝てる可能性がある人がいたら、俺は無条件で尊敬できるな」
 瀬川さんは、ふう、と息をつき、パタパタと手で顔を仰ぐ。頭上でさわさわと木々の揺れる音がして風が下りて来た。涼やかで気持ちいい。目を閉じて一息つく。その風の中に、もうずいぶん遠く感じる夏の気配みたいなものをかすかに感じた。イベント会場から聞こえるかすかなざわめきとスパイスの薫り。みんなで過ごしたあの時間が戻ってきた気がした。
 徐々にあたしから離れかけて懐かしいものになりつつあった記憶が一気によみがえる。
 瀬川さんと松本くんの口論。
 瀬川さんの大量のレシピ。
 瀬川さんの奇抜なフィッシュラッサム。
 瀬川さんの人身事故(?)。
 そして、瀬川さんのブラウンシュガー愛。
 思い出すだけど、自然と口元がほころんでしまう。
 色んなことがあったけど、結局。
「瀬川さんって本当にカレー好きだよねー」
 今日だって、朝からとんでもない量の荷物を抱えてやってきて、一日中働くなんてよっぽどじゃなきゃやろうと思わない。
「君もだろ?」
 瀬川さんが笑った。
 無邪気な感じにあたしをまっすぐ見ている。
 いつもきっちり整っている髪の毛は汗で乱れておかしなことになっている。
 あ、そうか。
 初めて瀬川さんのことが気になったときもこうだった。
 いつもと違った表情を出されると、次の引き出しを開けてみたくなる。
 あたしと瀬川さんがお互いを理解しあっているかというと、全然。
 だけど、だから面白いなって思う。
 どこにいるかもわからない瀬川さんの他の姿をもっとみてみたくなる。
 うん。自分の気持ちをちゃんとみつけた。
「ねぇ、あたし瀬川さんに言っておきたいことがあるんだけど」
「なに?」
 瞬間的にあたしから距離をとり、警戒心丸出しの顔で瀬川さんは言う。
 その表情こそ懐かしい。初めて会ったころから、あたしが何か言うたびに瀬川さんはこんな風に構えてみせた。それでも懲りずに絡んでいたんだから、その頃からあたしはどこかで彼のことを気になっていたんだろう。
「あたしさ、瀬川さんのこと好きだわ」
 
 そして冒頭に戻る。
「なんで好きかはあたしもわかんないだよね。瀬川さんって、カッコつけてみせるけど、自分で思ってるほど別に決まってないし、話は長いし、しかもたいていつまんないじゃない?」
「……君、確か俺のこと好きって言ったよな?」
 叫びすぎてかすかすになった声で瀬川さんは不審がる。
「ね、謎でしょ?」
「……謎だな」
 瀬川さんはまだ動揺から抜け切れていないようで、困り果てたように眉は斜めになっている。
「まぁ、考えてみてよ」
 あたしはそう言って、この話を切り上げるつもりでベンチから勢いよく立ち上がった。正直に言うと、きっとダメだろうなと分かっていた。だけど、むしろここからだと思っている。何にもないところから始めるなら、せめてあたしだけは自分を信じて前を向いていたい。
 さてと、ここからどんな一歩を踏み出そうかな。
 そう考えてみようとしていたら、猛烈な勢いで何かがあたしと瀬川さんの前を通り過ぎて行った。
「な、中村!?」
「はやくこーーーいっっ!!! さっさと準備しないとカレー店を回れなくなるぞっ」
 スピードを微塵も落とすことなく中村くんは叫び返す。
「お前、早くって、荷物! 手伝えよっ」
「まかせたー」
「おい! 待てっ」
 文句を言いながらも大急ぎで瀬川さんが荷物をまとめだす。
 あたしって、つくづく余計なこと言っちゃう口を持っているけど。
 今度だけは言葉もでなかった。
 代わりに、足元にあった中村くんの鞄を手に取って。
 ぶんなげた。
 隠された才能? 
 火事場の馬鹿力? 
 まあ、どっちでもいいんだけど。あたしの投げた食料とスパイスがパンパンにつまった中村くんのバックパックは秋の青い空を背景に、それはそれは見事な軌道を描いて、中村くんにクリーンヒット。
 よっしゃ!
 ガッツポーズをして振り返ると、細い目を全力で真ん丸にした瀬川さんが、呆然とあたしをみつめていた。
 あ。
 あたしの恋、終わった、かな。

「いやぁー。マジで助かったわ! サンキューな。つーか、なんならまたやろうぜ」
「それは……あたしは遠慮しとく……」
「俺も……」
 イベント自体はすごく楽しかったけど、中村くんのパワーに負けずに、彼をうまくコントロールするのってとんでもない技術が必要だと実感した。色々ありすぎて疲労困憊。
 帰りの電車では疲れてほとんど寝ていた。
 だけど、瀬川さんのつぶやきが聞こえた気がした。
「西野さんなら中村に勝てるかもなぁ……」
 夢に落ちていく途中で、胸の奥がふわっとした。
表紙

ネコとカレーライス
スパイスと秘密のしっぽ

  • 著:藤野ふじの
  • イラスト:ふすい
  • 発売日:2021年6月18日
  • 価格:759円(本体690円+税10%)

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