――午前六時――
待ち構えていたようにスマホが震え、微かな電子音を鳴らし始めた。音がくぐもっているのは、枕の下に隠れているせいだ。特に寝相が悪いわけでもないのに、浅緋のスマホはいつも、寝ている間にどこかへ入り込んでしまう。
毎度お馴染みのようにうう、と情けない唸り声を出しながら彼は音の元を探す。伸びた手がつかみ引き寄せたのはなぜか、つるりとした金属の冷たい感触だった。どこを押しても触っても、微かな振動とぴぴぴぴうるさい音は止まない。たまらなくなって、浅緋はがばりと半身を起こした。
「うるせー」
ぼそぼそ零しながら寝ぼけ眼で手の中の物体を見る。彼が握っていたのは小さなトロフィーだった。『まちなかフェス大運動会リレー優勝』と彫られた金ピカのプレートが誇らしげに嵌め込まれている。眠たい目を擦りながら、浅緋は大事そうにそれをベッド脇へ戻すと、やっとスマホを探り当て、音を止めることに成功した。
深い緑が少しずつ黄色や赤へ色づく十一月。外はまだ、ほんのりと暗い。照明をつけず暗い部屋のなかを、元気のいい寝癖のついたアッシュブロンドの頭を振りながら浅緋は洗面台へ向かった。数歩もいかないうちに「いてっ」と呻いて足先を抱える。昨日届いたばかり、置き場所に困ってそのままにしていた大きな米袋につま先をぶつけてしまったのだ。最近、彼の養父母は定期的に大量の食材を送ってくるようになった。とてもではないが一人で使いきれないのでたいてい『雪』に持ち込むのだが、そんな時、彼は「マジで多すぎなんすよ」と零しながらもどこか嬉しそうに見える。
その『café&BAR 雪』。浅緋のバイト先は今日、定休日だ。
今週になって一段と冷たくなった空気が浅緋の眠気をすっきりと飛ばしてゆく。だんだんと明るくなる道を黙々と走った。自分の息遣いと、高架をゆく電車ががたがたと空気を揺らすのを感じながら、三十分は走ったろうか。もう引き返していい頃合いだが、最近はついつい距離を伸ばしてしまう。浅緋は速度を緩めつつ、舗装された道を進み続ける。やがて通学路のマークがあちこちに見えてくるにつれ、登校する小学生がちらほらと現れ始めた。誰かを探すように浅緋はランドセルの群れに視線を彷徨わせる。
「浅緋お兄ちゃん!」
青いランドセルを元気に振りながら、少年が彼に飛びついてきた。
「よ、智。おはよ」
「おはよ! 今日は会えそうな気がしてた!」
「おう」
元町にある雑貨店『blue』の息子、智はにこにこと嬉しそうに銀髪の青年を見上げる。この笑顔を見るために、時間のある時はついついこちらまで足を伸ばしてしまうのだ。登校の集団の後ろをゆっくりと歩く。
「この前の運動会、すごかったよ浅緋お兄ちゃん!」
智はいつにも増して瞳をきらきらとさせている。先日のリレーのことを言っているのだ。あの日、ぶっちぎりでゴールテープを切る姿は智と、彼のクラスメイト達に衝撃を与えたらしい。
尊敬の滲んだ表情に、浅緋は「オレは速いぞって言っただろ?」と満更でもない様子だ。
「うん、ほんと、風みたいだった! ほんとにすごい! 僕も、お兄ちゃんみたいに走りたい」
智の小学校の運動会は毎年一学期にあるという。
「へえ、じゃ来年までまだ何ヶ月かあるじゃん。それまでに特訓しよーぜ」
「ほんと? ぼくも速く走れるようになる?」
「なれるって。オレが教えてやる」
彼は自信満々に頷く。素直な智は飲み込みも早いはずだ。
「じゃあ絶対、教えてね!」
「わかった、約束な」
真剣な表情で、二人は拳をこつんと合わせた。
――午前十一時――
「これ全部食べていいんすか? まじで?」
赤いチェック柄の素朴なリネンクロスが敷かれたテーブルに並ぶ色とりどりの皿、皿、皿。浅緋は瞳を輝かせた。酒店「よしの」の息子はにこにこと目を細め、何度も首を縦に振る。
「もちろん! ぜーんぶ食べていいねんで。勝ったら奢るって約束したやろ?」
大盛りのナポリタン。まだチーズがグツグツと泡を立てているシーフードグラタンに、一口サイズのまるく可愛らしいコロッケ。鉄板プレートの上で魅力的な焦げ目を見せるハンバーグはとろりとした黄金の目玉焼きを纏っている。隣には緑が抜群に鮮やかなサラダが華を添える。ランニング終わりの浅緋にはどれも刺激的だ。胃が期待で歓喜の声を上げている。
平日だというのに席のほとんどが埋まっているこの店は、予約なしではなかなか入れないという洋食屋だ。昔ながらのメニューはシェフこだわりの食材を使い、大人から子供まで大人気の店だという。すっげー、とひとしきり料理を目で楽しんだ浅緋はえいっとばかりにフォークとナイフを掴み、臨戦態勢に入った。
「あざす! じゃあ、いただきます!」
「やばい」「うまい」「熱っ」の単語を繰り返しながら次々と平らげていく浅緋を楽しそうに眺めながら、吉野晃は改めて先の運動会の感想を告げた。
「ほんと、たぶん速いやろなとは思ってたけど、あそこまでとはね。浅緋くんに声かけてほんま正解やったわ」
そう言って晃は満足げにコーヒーを口に含む。十月に開催されたまちなかフェスの目玉、運動会は期待以上の人出だった。なによりレースが盛り上がり、浅緋の走る姿に魅了された人が多かったらしい。
青空の下、颯爽とトラックを走り抜ける銀髪の青年を、「あれ、どこの子? めっちゃカッコいい」と交わされる声が実行委員をしていた晃の耳にも届いた。珍しく応援に現れた『雪』のオーナーのこともあり、いっとき会場がざわついたくらいだ。当の浅緋は、そんなことはお構いなしに『blue』の息子の智や『雪』の黒猫と戯れてばかりだったが。
「やっぱトラックで走るのは気持ちいいっすよね
今も目の前の青年は、自分が地域で話題になったことなど気にする風もなく走る楽しさについて語っている。晃はふと思い出して浅緋に尋ねた。
「そうそう、あのとき結構な人が浅緋くんや桐夜さんのこと動画やら撮ってたんよ。その、大丈夫やった? 『雪』の代表として出場したからちょっと心配やってんけど……」
「あー。ちょっとの間、店は忙しかったっすね。でも、バイト代上げてもらったからオレは全然……それに、画像も多分大丈夫す」
そうなんだ、と首を傾げる晃に浅緋は言葉を濁した。たしかにあのときは二人に向けられるカメラが多くて、浅緋も少し心配だったのだ。自分はそういうのは気にならないが、桐夜は目立つのを極力避けている。それを尋ねると、なぜかその日「偶然」店に来ていた瑞貴が、
「そういうのはこちらも対策してるよ。桐夜も僕も記録媒体には認識されないようにしてる」
と何食わぬ顔で言っていたのだ。どんな方法かは知らないが、SNSなどで彼らの姿はほとんど映らないという。長命である彼らなりの防衛策があるのかもしれなかった。
「前に、商店街のパンフでお店紹介しても桐夜さんがちゃんと映ったのなくて、苦労してん。もしかして、桐夜さんてなんか不思議な力があるんかな?」
晃は冗談めかして言ってから、ふと何かを思い出そうとするように少しの間宙を見つめていた。だがやがて諦めたらしく、浅緋に向き直る。
「浅緋くん、来年も頼むね!絶対出てよ!また奢るから」
翌週に結婚式を控えた青年は明るく笑った。
――午後三時――
昼食後、晃が婚約者に頼まれた焼き菓子を探すのにつきあって、二人は三宮から元町まで何軒か歩き回った。そのせいか、別れるころにはもう小腹が減ってきてしまった。
(まだ夕メシには早いし、どうすっかな)
せっかくの休日だし、バイク屋巡りでもしようかと思っていた浅緋だったがなぜか視線は食べ物の店ばかりを探してしまう。最近、桐夜は太刀を扱わせてくれるようになったのだが、あれを振るうと本当に腹が減るのだ。前よりは疲れなくなってきているけれど、まだまだ馴染むのには時間がかかりそうだ。
そんな彼の目に、焼き上がったばかりのたい焼きが飛び込んできた。行儀良く六尾、鉄板の上に並んでいる。ふっくらと甘い餡の香りが彼の鼻を優しくつつく。
(うまそ……。ナギと一緒に食べよっかな)
『雪』は定休日だが、ナギはきっといるはずだ。まだそんなに外に出られない黒い豹は暇を持て余しているに違いない。
「二つ、いや、四つくだ……」
サイフを出しながら吸い寄せられるように近づいていくと、横から「そこにあるの、全部頂けますか」とスマートな声に先手を取られてしまった。
「あ、ちょ」
慌てて隣を見ると、赤茶の髪に秋色の小洒落たジャケットを着た男性が済まして立っている。京都にいるはずの瑞貴だった。目が合って、鬼人はぴくりと眉を上げる。
「僕が先だよ」
浅緋もぴくぴくと頬を引き攣らせる。
「いや、オレっす」
「絶対違うでしょ。僕が先に声をかけたんだよ」
「こういう時は、コウハイに譲るもんすよ」
「は?いつ、誰が後輩になったんだよ?」
しばし睨み合ったのち、瑞貴は小さくため息をついて引き下がった。「じゃあいいよ、僕は他を探すから」と背を向けすたすた通りを行ってしまう。浅緋はたい焼きの袋を抱え、慌てて彼を追いかけた。
「ちょ、瑞貴サン、何しにこっちにきたんすか?『雪』、今日は定休日すよ?」
「知ってる」
瑞貴は紙袋をぶら下げながら、人で賑わう交差点を南のほうへ渡っていく。
「別に、僕が神戸にいるからって、『雪』にいくとは限らないでしょ」
「え? 違うんすか?」
驚いて目を見開く浅緋に、瑞貴は口籠る。少し目を泳がせたあと、仕方なさそうに答えた。
「……っ。まあいいや。ついてきて。君、暇なんでしょう? 荷物持ちね」
「えええ」
「後輩なんだろ。手伝いなよ」
少し意地悪そうに笑った瑞貴は、浅緋を連れて商店街の菓子店からデパ地下までいろいろなところを買い回った。浅緋にしてみれば、さっきまでの晃との繰り返しだ。ガラスケースに並ぶ宝石のような菓子を見つめ悩む瑞貴に、たい焼きの甘い香りを抱きしめながら浅緋は、あれ美味そう、こっちも美味そうと連発する。最終的に、片手にはスイーツ、反対には日本酒の一升瓶など両手を土産物でいっぱいにして、ようやく瑞貴は買い物を切り上げた。
「じゃ、行こうか」
「すげえ重いんすけど……。なんでこっちがうまそうって言ったもん片っ端から買うんすか? それにまさか京都まで荷物持ちさせられんのオレ?」
浅緋は恨めしそうに瑞貴を見上げた。もう小腹が空いたを通り越しきっちり空腹だ。外は風も冷たくなってなんだか悲しくなってくる。
「それも楽しそうだね。でも、今日は約束があるから」
くすりと笑って、瑞貴は北へと進路を変えた。やがて、二人はおなじみの店の前に立つ。
「なんだよ。やっぱりここに来るんじゃん」
『雪』の重たい扉は、定休日の札が下りていた。だが、瑞貴はそれを無視してドアを開ける。上品なベルの音と共に柔らかな光が二人を包んだ。
「待っていたぞ! 瑞貴! おお、浅緋ではないか」
黒い獣がどおんと浅緋の腹にしがみついてきた。あれから順調に回復中の黒い豹は、数時間なら猫にも変化できるようになってきて、大きさも戻りつつある。のし掛かられて多少苦しくても、これは嬉しい重さだ。一方瑞貴は店に入るなり「あっ」と声を尖らせた。視線の先には桐夜がいる。カウンター奥の鬼人は、相変わらず優雅な仕草で煙草に火をつけようとしているところだった。
瑞貴の咎めるような視線に気づくと、彼はライターを手元に戻し、決まり悪そうに美しい黒髪を耳にかけた。
「早かったな、瑞貴。浅緋も一緒に連れてきたのか」
「……前も言ったよね。喫煙なんて悪癖やめた方がいいって」
もっと身体に気を遣ってくれ、もう僕たちしかいないんだからと瑞貴は厳しい顔をしてみせる。桐夜が素直にすまないと謝ると、赤茶の髪の男は渋々頷いた。そして、「はい、頼まれてたものだよ」と袋類をテーブルに置く。そこには既に、『雪』看板メニューのスイーツがいくつも並んでいて、全てを並べるとテーブルはさながら菓子博覧会のようになった。チョコやフルーツ、バターの香りで室内がいっぺんにお菓子の国へと変わったのを見て浅緋は目を白黒させた。
「おい。なんだよ!オレに内緒でなんかいいコト始める気だったのかよ?」
思いっきり頬を膨らませ浅緋は山盛りのスイーツと、桐夜、瑞貴、そしてナギを見回し口をへの字に曲げた。少しは彼らと馴染めたような気がしていただけに、腹が立つというより寂しい。桐夜たちは顔を見合わせて、愉快そうに笑った。
「お前は昼に酒屋の息子と祝勝会をしたのだろう?」
桐夜が尋ねる。もう一週間も前から、浅緋は自慢げに今日のことを話していたのだ。
「そーだけど、だからってオレがいない時にさー、こんな美味そうなの食べる気だったのかよ」
のけ者にされたのが寂しくて、浅緋はふて腐れながらナギの毛をぐりぐりと撫でる。
「それは違うぞ。浅緋ががんばったから、おやつの宴を開いてやるのだ。我らが相談して準備した。これは、さぷらいずというのだ」
浅緋は思わず手を止めた。
「……マジ?」
「驚かせようと、今日まで黙っていたのだ」
ナギが楽しそうに牙を見せる。
「連絡するまでに会っちゃったからね、もういいやと思って買い物にも付き合ってもらったんだ」
瑞貴はこほんと咳払いした。心なしか耳が赤い。浅緋は目を丸くして瑞貴を、そして色とりどりの「おやつ」を見る。栗やさつまいもなど、秋の食材をふんだんに使った和洋さまざまな菓子が『雪』に差し込む午後の光に照らされている。浅緋がうまそうと言ったものばかりだ。これが、全部自分のために用意されたのだ。なぜだか鼻がツンとしてくるのをぐっと我慢する。
桐夜はカウンターの中へ入り、コーヒーの準備を始めた。ごりごり、と手動ミルの音が心地よく響く。珍しく彼は手で豆を挽いていた。浅緋が、鬼人としての桐夜と初めて出会ったとき以来だ。
「突っ立ってないで座ったらどうだ」
いつもと変わらない穏やかな様子に無性に照れ臭くなって、浅緋はもごもご言いながらカウンター角の、かつての「いつもの席」へ腰を下ろした。嬉しくて、身体がむずむずとする。
「おお、瑞貴。我が頼んだものも持ってきてくれたのだな」
ナギが嬉しそうに一升瓶を尻尾でくるりと一巻きした。
「少しずつだよ、ナギ。まだ身体は完全じゃないんだからね」
「だが、酒は百薬の長と古来より言われているぞ」
「それでも、だめだよ。昔から飲み出すと止まらなかったろ」
浅緋は驚いて黒豹を見た。
「ナギって酒飲めんの?」
「当たり前だ。皆、我に供えるものといえば酒だったぞ」
「そんなイメージねーよ」
瑞貴が笑う。
「ナギはザルだよ。もともとは土地神だったんだし、自然なことだね。僕も桐夜も強い方だけどさすがにナギには敵わないかな
二人が時おり、静かに酒を飲んでいたのは浅緋も知っている。きっと、遠い昔の話をしているのだろうと、邪魔をしたことはない。
「ええー。じゃあこの中で酒飲めないのオレだけかよ」
浅緋は残念そうに頬杖をつく。
「成人したら、お前にカクテルを作ってやろう。それまではノンアルコールで我慢しろ」
桐夜が珍しく優しい顔をした。
深い夕暮れに染まり始める六甲山の麓。『雪』の窓からはずっと、柔らかな光が漏れていた。
Fin
待ち構えていたようにスマホが震え、微かな電子音を鳴らし始めた。音がくぐもっているのは、枕の下に隠れているせいだ。特に寝相が悪いわけでもないのに、浅緋のスマホはいつも、寝ている間にどこかへ入り込んでしまう。
毎度お馴染みのようにうう、と情けない唸り声を出しながら彼は音の元を探す。伸びた手がつかみ引き寄せたのはなぜか、つるりとした金属の冷たい感触だった。どこを押しても触っても、微かな振動とぴぴぴぴうるさい音は止まない。たまらなくなって、浅緋はがばりと半身を起こした。
「うるせー」
ぼそぼそ零しながら寝ぼけ眼で手の中の物体を見る。彼が握っていたのは小さなトロフィーだった。『まちなかフェス大運動会リレー優勝』と彫られた金ピカのプレートが誇らしげに嵌め込まれている。眠たい目を擦りながら、浅緋は大事そうにそれをベッド脇へ戻すと、やっとスマホを探り当て、音を止めることに成功した。
深い緑が少しずつ黄色や赤へ色づく十一月。外はまだ、ほんのりと暗い。照明をつけず暗い部屋のなかを、元気のいい寝癖のついたアッシュブロンドの頭を振りながら浅緋は洗面台へ向かった。数歩もいかないうちに「いてっ」と呻いて足先を抱える。昨日届いたばかり、置き場所に困ってそのままにしていた大きな米袋につま先をぶつけてしまったのだ。最近、彼の養父母は定期的に大量の食材を送ってくるようになった。とてもではないが一人で使いきれないのでたいてい『雪』に持ち込むのだが、そんな時、彼は「マジで多すぎなんすよ」と零しながらもどこか嬉しそうに見える。
その『café&BAR 雪』。浅緋のバイト先は今日、定休日だ。
今週になって一段と冷たくなった空気が浅緋の眠気をすっきりと飛ばしてゆく。だんだんと明るくなる道を黙々と走った。自分の息遣いと、高架をゆく電車ががたがたと空気を揺らすのを感じながら、三十分は走ったろうか。もう引き返していい頃合いだが、最近はついつい距離を伸ばしてしまう。浅緋は速度を緩めつつ、舗装された道を進み続ける。やがて通学路のマークがあちこちに見えてくるにつれ、登校する小学生がちらほらと現れ始めた。誰かを探すように浅緋はランドセルの群れに視線を彷徨わせる。
「浅緋お兄ちゃん!」
青いランドセルを元気に振りながら、少年が彼に飛びついてきた。
「よ、智。おはよ」
「おはよ! 今日は会えそうな気がしてた!」
「おう」
元町にある雑貨店『blue』の息子、智はにこにこと嬉しそうに銀髪の青年を見上げる。この笑顔を見るために、時間のある時はついついこちらまで足を伸ばしてしまうのだ。登校の集団の後ろをゆっくりと歩く。
「この前の運動会、すごかったよ浅緋お兄ちゃん!」
智はいつにも増して瞳をきらきらとさせている。先日のリレーのことを言っているのだ。あの日、ぶっちぎりでゴールテープを切る姿は智と、彼のクラスメイト達に衝撃を与えたらしい。
尊敬の滲んだ表情に、浅緋は「オレは速いぞって言っただろ?」と満更でもない様子だ。
「うん、ほんと、風みたいだった! ほんとにすごい! 僕も、お兄ちゃんみたいに走りたい」
智の小学校の運動会は毎年一学期にあるという。
「へえ、じゃ来年までまだ何ヶ月かあるじゃん。それまでに特訓しよーぜ」
「ほんと? ぼくも速く走れるようになる?」
「なれるって。オレが教えてやる」
彼は自信満々に頷く。素直な智は飲み込みも早いはずだ。
「じゃあ絶対、教えてね!」
「わかった、約束な」
真剣な表情で、二人は拳をこつんと合わせた。
――午前十一時――
「これ全部食べていいんすか? まじで?」
赤いチェック柄の素朴なリネンクロスが敷かれたテーブルに並ぶ色とりどりの皿、皿、皿。浅緋は瞳を輝かせた。酒店「よしの」の息子はにこにこと目を細め、何度も首を縦に振る。
「もちろん! ぜーんぶ食べていいねんで。勝ったら奢るって約束したやろ?」
大盛りのナポリタン。まだチーズがグツグツと泡を立てているシーフードグラタンに、一口サイズのまるく可愛らしいコロッケ。鉄板プレートの上で魅力的な焦げ目を見せるハンバーグはとろりとした黄金の目玉焼きを纏っている。隣には緑が抜群に鮮やかなサラダが華を添える。ランニング終わりの浅緋にはどれも刺激的だ。胃が期待で歓喜の声を上げている。
平日だというのに席のほとんどが埋まっているこの店は、予約なしではなかなか入れないという洋食屋だ。昔ながらのメニューはシェフこだわりの食材を使い、大人から子供まで大人気の店だという。すっげー、とひとしきり料理を目で楽しんだ浅緋はえいっとばかりにフォークとナイフを掴み、臨戦態勢に入った。
「あざす! じゃあ、いただきます!」
「やばい」「うまい」「熱っ」の単語を繰り返しながら次々と平らげていく浅緋を楽しそうに眺めながら、吉野晃は改めて先の運動会の感想を告げた。
「ほんと、たぶん速いやろなとは思ってたけど、あそこまでとはね。浅緋くんに声かけてほんま正解やったわ」
そう言って晃は満足げにコーヒーを口に含む。十月に開催されたまちなかフェスの目玉、運動会は期待以上の人出だった。なによりレースが盛り上がり、浅緋の走る姿に魅了された人が多かったらしい。
青空の下、颯爽とトラックを走り抜ける銀髪の青年を、「あれ、どこの子? めっちゃカッコいい」と交わされる声が実行委員をしていた晃の耳にも届いた。珍しく応援に現れた『雪』のオーナーのこともあり、いっとき会場がざわついたくらいだ。当の浅緋は、そんなことはお構いなしに『blue』の息子の智や『雪』の黒猫と戯れてばかりだったが。
「やっぱトラックで走るのは気持ちいいっすよね
今も目の前の青年は、自分が地域で話題になったことなど気にする風もなく走る楽しさについて語っている。晃はふと思い出して浅緋に尋ねた。
「そうそう、あのとき結構な人が浅緋くんや桐夜さんのこと動画やら撮ってたんよ。その、大丈夫やった? 『雪』の代表として出場したからちょっと心配やってんけど……」
「あー。ちょっとの間、店は忙しかったっすね。でも、バイト代上げてもらったからオレは全然……それに、画像も多分大丈夫す」
そうなんだ、と首を傾げる晃に浅緋は言葉を濁した。たしかにあのときは二人に向けられるカメラが多くて、浅緋も少し心配だったのだ。自分はそういうのは気にならないが、桐夜は目立つのを極力避けている。それを尋ねると、なぜかその日「偶然」店に来ていた瑞貴が、
「そういうのはこちらも対策してるよ。桐夜も僕も記録媒体には認識されないようにしてる」
と何食わぬ顔で言っていたのだ。どんな方法かは知らないが、SNSなどで彼らの姿はほとんど映らないという。長命である彼らなりの防衛策があるのかもしれなかった。
「前に、商店街のパンフでお店紹介しても桐夜さんがちゃんと映ったのなくて、苦労してん。もしかして、桐夜さんてなんか不思議な力があるんかな?」
晃は冗談めかして言ってから、ふと何かを思い出そうとするように少しの間宙を見つめていた。だがやがて諦めたらしく、浅緋に向き直る。
「浅緋くん、来年も頼むね!絶対出てよ!また奢るから」
翌週に結婚式を控えた青年は明るく笑った。
――午後三時――
昼食後、晃が婚約者に頼まれた焼き菓子を探すのにつきあって、二人は三宮から元町まで何軒か歩き回った。そのせいか、別れるころにはもう小腹が減ってきてしまった。
(まだ夕メシには早いし、どうすっかな)
せっかくの休日だし、バイク屋巡りでもしようかと思っていた浅緋だったがなぜか視線は食べ物の店ばかりを探してしまう。最近、桐夜は太刀を扱わせてくれるようになったのだが、あれを振るうと本当に腹が減るのだ。前よりは疲れなくなってきているけれど、まだまだ馴染むのには時間がかかりそうだ。
そんな彼の目に、焼き上がったばかりのたい焼きが飛び込んできた。行儀良く六尾、鉄板の上に並んでいる。ふっくらと甘い餡の香りが彼の鼻を優しくつつく。
(うまそ……。ナギと一緒に食べよっかな)
『雪』は定休日だが、ナギはきっといるはずだ。まだそんなに外に出られない黒い豹は暇を持て余しているに違いない。
「二つ、いや、四つくだ……」
サイフを出しながら吸い寄せられるように近づいていくと、横から「そこにあるの、全部頂けますか」とスマートな声に先手を取られてしまった。
「あ、ちょ」
慌てて隣を見ると、赤茶の髪に秋色の小洒落たジャケットを着た男性が済まして立っている。京都にいるはずの瑞貴だった。目が合って、鬼人はぴくりと眉を上げる。
「僕が先だよ」
浅緋もぴくぴくと頬を引き攣らせる。
「いや、オレっす」
「絶対違うでしょ。僕が先に声をかけたんだよ」
「こういう時は、コウハイに譲るもんすよ」
「は?いつ、誰が後輩になったんだよ?」
しばし睨み合ったのち、瑞貴は小さくため息をついて引き下がった。「じゃあいいよ、僕は他を探すから」と背を向けすたすた通りを行ってしまう。浅緋はたい焼きの袋を抱え、慌てて彼を追いかけた。
「ちょ、瑞貴サン、何しにこっちにきたんすか?『雪』、今日は定休日すよ?」
「知ってる」
瑞貴は紙袋をぶら下げながら、人で賑わう交差点を南のほうへ渡っていく。
「別に、僕が神戸にいるからって、『雪』にいくとは限らないでしょ」
「え? 違うんすか?」
驚いて目を見開く浅緋に、瑞貴は口籠る。少し目を泳がせたあと、仕方なさそうに答えた。
「……っ。まあいいや。ついてきて。君、暇なんでしょう? 荷物持ちね」
「えええ」
「後輩なんだろ。手伝いなよ」
少し意地悪そうに笑った瑞貴は、浅緋を連れて商店街の菓子店からデパ地下までいろいろなところを買い回った。浅緋にしてみれば、さっきまでの晃との繰り返しだ。ガラスケースに並ぶ宝石のような菓子を見つめ悩む瑞貴に、たい焼きの甘い香りを抱きしめながら浅緋は、あれ美味そう、こっちも美味そうと連発する。最終的に、片手にはスイーツ、反対には日本酒の一升瓶など両手を土産物でいっぱいにして、ようやく瑞貴は買い物を切り上げた。
「じゃ、行こうか」
「すげえ重いんすけど……。なんでこっちがうまそうって言ったもん片っ端から買うんすか? それにまさか京都まで荷物持ちさせられんのオレ?」
浅緋は恨めしそうに瑞貴を見上げた。もう小腹が空いたを通り越しきっちり空腹だ。外は風も冷たくなってなんだか悲しくなってくる。
「それも楽しそうだね。でも、今日は約束があるから」
くすりと笑って、瑞貴は北へと進路を変えた。やがて、二人はおなじみの店の前に立つ。
「なんだよ。やっぱりここに来るんじゃん」
『雪』の重たい扉は、定休日の札が下りていた。だが、瑞貴はそれを無視してドアを開ける。上品なベルの音と共に柔らかな光が二人を包んだ。
「待っていたぞ! 瑞貴! おお、浅緋ではないか」
黒い獣がどおんと浅緋の腹にしがみついてきた。あれから順調に回復中の黒い豹は、数時間なら猫にも変化できるようになってきて、大きさも戻りつつある。のし掛かられて多少苦しくても、これは嬉しい重さだ。一方瑞貴は店に入るなり「あっ」と声を尖らせた。視線の先には桐夜がいる。カウンター奥の鬼人は、相変わらず優雅な仕草で煙草に火をつけようとしているところだった。
瑞貴の咎めるような視線に気づくと、彼はライターを手元に戻し、決まり悪そうに美しい黒髪を耳にかけた。
「早かったな、瑞貴。浅緋も一緒に連れてきたのか」
「……前も言ったよね。喫煙なんて悪癖やめた方がいいって」
もっと身体に気を遣ってくれ、もう僕たちしかいないんだからと瑞貴は厳しい顔をしてみせる。桐夜が素直にすまないと謝ると、赤茶の髪の男は渋々頷いた。そして、「はい、頼まれてたものだよ」と袋類をテーブルに置く。そこには既に、『雪』看板メニューのスイーツがいくつも並んでいて、全てを並べるとテーブルはさながら菓子博覧会のようになった。チョコやフルーツ、バターの香りで室内がいっぺんにお菓子の国へと変わったのを見て浅緋は目を白黒させた。
「おい。なんだよ!オレに内緒でなんかいいコト始める気だったのかよ?」
思いっきり頬を膨らませ浅緋は山盛りのスイーツと、桐夜、瑞貴、そしてナギを見回し口をへの字に曲げた。少しは彼らと馴染めたような気がしていただけに、腹が立つというより寂しい。桐夜たちは顔を見合わせて、愉快そうに笑った。
「お前は昼に酒屋の息子と祝勝会をしたのだろう?」
桐夜が尋ねる。もう一週間も前から、浅緋は自慢げに今日のことを話していたのだ。
「そーだけど、だからってオレがいない時にさー、こんな美味そうなの食べる気だったのかよ」
のけ者にされたのが寂しくて、浅緋はふて腐れながらナギの毛をぐりぐりと撫でる。
「それは違うぞ。浅緋ががんばったから、おやつの宴を開いてやるのだ。我らが相談して準備した。これは、さぷらいずというのだ」
浅緋は思わず手を止めた。
「……マジ?」
「驚かせようと、今日まで黙っていたのだ」
ナギが楽しそうに牙を見せる。
「連絡するまでに会っちゃったからね、もういいやと思って買い物にも付き合ってもらったんだ」
瑞貴はこほんと咳払いした。心なしか耳が赤い。浅緋は目を丸くして瑞貴を、そして色とりどりの「おやつ」を見る。栗やさつまいもなど、秋の食材をふんだんに使った和洋さまざまな菓子が『雪』に差し込む午後の光に照らされている。浅緋がうまそうと言ったものばかりだ。これが、全部自分のために用意されたのだ。なぜだか鼻がツンとしてくるのをぐっと我慢する。
桐夜はカウンターの中へ入り、コーヒーの準備を始めた。ごりごり、と手動ミルの音が心地よく響く。珍しく彼は手で豆を挽いていた。浅緋が、鬼人としての桐夜と初めて出会ったとき以来だ。
「突っ立ってないで座ったらどうだ」
いつもと変わらない穏やかな様子に無性に照れ臭くなって、浅緋はもごもご言いながらカウンター角の、かつての「いつもの席」へ腰を下ろした。嬉しくて、身体がむずむずとする。
「おお、瑞貴。我が頼んだものも持ってきてくれたのだな」
ナギが嬉しそうに一升瓶を尻尾でくるりと一巻きした。
「少しずつだよ、ナギ。まだ身体は完全じゃないんだからね」
「だが、酒は百薬の長と古来より言われているぞ」
「それでも、だめだよ。昔から飲み出すと止まらなかったろ」
浅緋は驚いて黒豹を見た。
「ナギって酒飲めんの?」
「当たり前だ。皆、我に供えるものといえば酒だったぞ」
「そんなイメージねーよ」
瑞貴が笑う。
「ナギはザルだよ。もともとは土地神だったんだし、自然なことだね。僕も桐夜も強い方だけどさすがにナギには敵わないかな
二人が時おり、静かに酒を飲んでいたのは浅緋も知っている。きっと、遠い昔の話をしているのだろうと、邪魔をしたことはない。
「ええー。じゃあこの中で酒飲めないのオレだけかよ」
浅緋は残念そうに頬杖をつく。
「成人したら、お前にカクテルを作ってやろう。それまではノンアルコールで我慢しろ」
桐夜が珍しく優しい顔をした。
深い夕暮れに染まり始める六甲山の麓。『雪』の窓からはずっと、柔らかな光が漏れていた。
Fin