温泉と私と座敷わらし
「やったわ。やったわ夏織! 福引きが当たったのよ! 一等、温泉宿泊券!」満面の笑みでナナシが貸本屋に飛び込んで来たのは、夏織が自宅にいた時だった。
「福引き? おめでとう~」
ぐったりしながら、幸運を分かち合う。夏織は疲れ果てていた。昨晩、一歳になる次女の夜泣きがすごくて寝れなかったのだ。隣ですやすやと眠っているわが子を見つめて苦笑する。もうだいぶ大きいのに、気難しい末っ子はたまに夜中に癇癪を起こす。まあ、仕方ない。親としては付き合うしかないのだ。
とはいえ、育ての親に降りかかった幸運。喜ばない訳がない。
「よかったねえ。きっとナナシの日頃の行いがいいからだよね」
にこりと笑って温泉に想いを馳せる。いいなあ。子どもが生まれてから温泉にはちっとも縁がない。前にホテルに泊まったのはいつだろう。朧気にしか覚えていないや……。
起き上がる気力もないまま、ぼんやり夏織が考え事をしていれば、にんまりとナナシが笑んだのがわかった。
「馬鹿ね。これはアンタの分よ」
「は?」
「ちょっとくらい休んできなさいよ。大丈夫。子どもたちの面倒はアタシがみるから」
なんと宿泊券をプレゼントしてくれるらしい。あまりにも優しい気遣いに夏織の瞳がじんわりと滲んだ。夏織の子どもは長男の夜月(よるつき)を含めた三人。上の子ふたりは手がかからなくなってきたが、一歳の下の子はまだまだ気が抜けない。正直、精神がすり減っているのを実感していたのだ。
「ナナシっ……! 大好き!!」
感極まって両手を広げる。クスクス笑ったナナシは、笑顔で抱きしめられに来てくれた。
「水明とふたりで行ってらっしゃいな。高級旅館らしいわよ。すっごく眺望がいいんですって。それも露天風呂つき。最高でしょ?」
「うん! ……うわあ。今から楽しみで仕方がないよ!」
嬉しい。嬉しい。嬉しい!
心がふわふわと軽くなって、若い頃みたいにパタパタ足を遊ばせた。
「うう……」
眠っていたわが子が声を上げた。起きてしまったようだ。騒ぎすぎたらしい。
「あららら! 起こしちゃったわね。泣かない。泣かないで沙月(さつき)……」
ナナシがすかさず子を抱き上げる。必死にあやしているナナシの背中を眺めながら、夏織はこの人の娘でよかったと心から思った。
――が、現実はそんなに甘くなく。
「夏織ィ……ごめん。ほんとうにごめんね」
旅行に出発する当日。まっ青な顔でナナシが謝った。どうやら前日に食べた牡蠣にあたったらしい。朝から嘔吐と発熱で大変な状況になっている。
「これじゃ、子どもたちの面倒なんて見られないわ。薬屋のナナシとしたことが、ノロウイルスなんかに負けるなんてッ! 悔しいッ!!」
歯を食いしばって悶える。「ウッ!!」途端、再び吐き気をもよおしたのか、勢いよくトイレへと駆けて行った。
「……こりゃ駄目だな」
ぽつりと呟いたのは水明だ。ぽん、と夏織の肩を優しく叩く。涙目で愛する夫を見つめた夏織は、深々とため息をこぼした。ナナシが悪い訳じゃないが、本当に楽しみにしていたのだ。部屋の隅に置かれた荷物が物悲しさを放っている。がっかりだ。
「私たちを置いて旅行に行こうだなんて考えるから、罰が当たったのよ!」
落ち込んでいる夏織に、鼻息も荒く抗議の声を上げたのは長女の春佳だ。大きな目に涙を溜めて、キッと夏織たちを睨みつけている。
「春佳(はるか)ったら。まだ言ってる……いい加減、しつこ……痛い!? 痛いんだけど!?」
妹に背中を叩かれて抗議の声を上げたのは、長男の夜月だ。夏織たちが子どもたちを置いて旅行に行くと伝えた時から駄々をこね続ける妹を宥めてくれるいい子である。
「罰ってなんだよ。母さんが普段大変なのはお前もわかってるだろ。少しくらい息抜きしたっていいじゃないか。チンパンジーみたいなお前の相手をするのは、母さんも大変……おい、尻をつねるのは止めて? 赤くなっちゃうから!!」
……確かにいい子なんだけど。余計なひとことがなければなあと思う夏織だった。
「まあ、今回は諦めるしかないか」
しょんぼりと肩を落とす。行きたかったなあ温泉。見たかったなあすごい眺望。入りたかったなあお部屋付きの露天風呂……。それでそれで、お部屋でのんびり本を読みたかったなあ……!! 旅館で読むべく選抜した文庫たちが泣いている気がした。
「別に行けばいいんでねえか?」
ひとりメソメソ泣いていれば、ひょっこりと小さな子どもが顔を覗き込んできた。
「うわ」
驚いて尻餅をつく。そんな夏織を見下ろしていたのは、おかっぱ頭の座敷童だ。
「どうしたの? 珍しい」
座敷童は町の外れにある日本家屋に住んでいる。普段は家にひきこもりがちであまり出てこない。彼女が外出する時といえば、新しく本を借りたい時くらいだろうが、つい先ごろ何冊か本を貸したばかりだ。
「いや、あんまりにもこの本が面白くてな! 続きが出てるなら読みてえなあって思っただけだべ」
座敷童の小さな手には、人気のライトノベルが握られている。なるほど、そういう事情ならと理解をしたところで、にんまりと座敷童が笑ったのがわかった。
「そしたら、おもしれえ話が聞こえたもんで、つい割り込んでしまっただ。駄目だったか? オラは思ったことを言っただけだども」
そんなことはない、と首を振ってから苦笑いする。
「行けばいい……とは言うけどね。子どもたちを預けられる人がいなくなった以上は、さすがに無理だよ」
末っ子は人見知りがまだまだある。ナナシには慣れているが、他の人には任せられない。
「そうなのだか?」
不思議そうにこてんと首を傾げた座敷童は、ぽつりと考えを口にした。
「子どもたちも連れていけばええ」
「確かにそうなんだけど……」
当日に人数変更なんて無理だろう。それに高級旅館だから、小さい子どもは嫌煙されるかもしれない。そう伝えると、座敷童は「オラに任せておけ」と胸を叩いた。
「ちょっくら電話を借りるぞ」
なにをするかと見守っていれば、今日宿泊予定の宿に電話をかけ始めた。
――どうするんだろう……。
訳がわからず座敷童の動向を見守っていれば、通話を追えた彼女はにんまり笑う。
「大丈夫だ。家族そろっておいで下さいだと」
「やったーーーーー!!!!」
「痛いっ!!!」
一番に歓声を上げたのは、長女の春佳だ。ぴょんっ! と高く飛んで、夜月の足を思い切り踏みしめてしまった。「なにすんだよ!」「ごめん、邪魔だったから」などと兄妹げんかを始めている。
「ええ……? 本当に?」
信じられなくて座敷童に訊ねる。彼女は黒々とした瞳をキラキラさせて、どこか自慢げに語った。
「オラは座敷童だぞ。幸運を運ぶあやかしがわざわざ来てくれるのに、拒否する宿がどこにある?」
確かになあ……と一旦納得しかけて、ちょっと待ってと冷静になる。
「つまりそれは――」
「オラも連れてけ!」
無邪気に笑った座敷童の白い歯がまぶしい。一瞬、虚を突かれたが、すぐに笑顔になる。
「それが目当てだったのね」
「うん。珠子ともめっきり出かけられてなくてな――」
珠子とは、座敷童の同居人だ。そうかそうか。なんとも座敷童らしいし、なんだか夏織の気分も上がってきたような気がした。
「じゃあ、みんなで行こっか!」
当初の予定とは違うものの、家族みんなで行く温泉旅行も楽しいかも知れない。
大人だけでのんびりしたい気持ちはあるが、子たちがもう少し大きくなってからでも遅くない。そもそも、旅館で本が読みたくてたまらなかったのだ。温泉旅館で殺人事件が起きるタイプのミステリをたくさん取りそろえたので!!
「みんな、楽しんでこようね……!」
「「「おおー!」」」
こうして、夏織たち家族は揃って旅館に出かけた。座敷童効果か、宿で一番いい部屋を宛がわれた時はさすがに恐縮したけども。
「ああ! 次はなにを読もうかなあ……!」
「まったく。お前は相変わらずだな」
旅館でさえ本に夢中な妻に、水明があきれ気味だったのは言うまでもない。
了
わが家は幽世の貸本屋さん
―胡蝶の夢―
- 著:忍丸
- 装画:六七質
- 発売日:2022年4月20日
- 価格:759円(本体690円+税10%)