『余話』

 ここは、ウツシヨとカクリヨの境目にある、見えるものにだけ見える不思議なお宿『たまゆら屋』。宿のオーナーはフクトミヌシイブキ、お江戸日本橋を長きに渡って見守る神様だ。通称、伊吹、と名乗っている。
 眉目秀麗の神様は、普段から少し気難しい顔つきをしている。稲穂の紋が入った立派な羽織。肩で切り揃えられた煤色の髪。佇まいは厳かで、神秘的な輝きを放っていた。
 しかしながら、庶民の神様らしく、親しみやすい一面もある。
 伊吹には人間の嫁がおり、かなりの愛妻家でもあった。とはいえ様々な事情から、現世ではワケありな夫婦関係を続けている。
 そんな伊吹にとって、待ちわびた夫婦水入らずの正月がやってきた。ちょうど、『たまゆら屋』の最上階にある伊吹の居室にて、正月の祝い膳の準備が整ったところだ。
 伊吹は漆椀の蓋を取り裏にして膳の奥へ置く。椀から漂うのは、まず昆布とかつおの香り。追いかけてくるのは濃厚で甘い香り。見た目は馴染みのある、すまし汁に沈んだ角餅。
「雑煮か」
 どうやら奇妙な料理ではなさそうだ、と伊吹は安心した。向かいに座ってにこにこしているのが、虫も殺さぬような可愛らしい顔をしながら料理は大胆という、伊吹の嫁・璃子である。祝い膳はすべて璃子の手料理だ。
「冷めないうちに召し上がってくださいね」
 正月らしい振り袖姿でおしとやかに振る舞っているが、油断はできない。転生前から珍しい料理を作る嫁に、伊吹はすっかり用心深くなっていた。
 そう、あれは確か――、伊吹は昔を振り返る。
 卵を産まなくなった鶏に璃子が目をつけたときの話だ。
『鶏の焼き鳥でございます』
 焼き鳥といえば雀だった江戸時代、璃子は鶏を串に刺して七厘で焼いた。固くなった肉はさほど美味しいとは思えなかったが、「なかなかだ」と言うしかない。なぜなら。
『伊吹様に美味しく召し上がっていただくのが、りんの幸せです』
 璃子は伊吹が「美味い」と言うたびに、ひどく嬉しそうにするのだ。
 今、目の前にいる璃子は前世の記憶を持たない。
 しかし、眼差しは語っている。伊吹の「美味い」を期待している。
(生まれ変わっても心は同じか)
 伊吹は不思議な縁で結ばれた妻を、やっぱり愛おしいと思う。そして、命は何より尊いと思うのだった。
(玉響は美しい)
 二人で過ごす時間が、悠久においてほんの一瞬であることを伊吹は当然知っている。
(玉響はいつもきらきらと眩い)
 それは、人が尊い命を燃やし続けながら生きるからかもしれない。
 故に、人である璃子が眩いのかもしれない。
「伊吹様、お味はいかがですか?」
 さっそく「美味い」の催促が来たが、伊吹はにやりとするだけだった。
 璃子は、立派な料理人だ。
 素材や腕だけではない。心が料理を上等にするのだ。璃子は料理に惜しみなく真心を込める。だからいつも、優しい味になるのだろう。
 だからと言って、簡単に「美味い」と言うのも勿体ない。
 もう少し夫婦の会話を楽しみたいと伊吹は思う。
「そう言えば、江戸では……」
 またはじまったとでも言いたげな、苦笑する璃子を眺めつつ、いつものように懐かしい日々を遡っていった。
 
◆◇◆

 それは遠い記憶の中にある、璃子との思い出――江戸時代後期のカクリヨでの暮らし。
「ここはどこですか?」
 りんがあんぐりと口を開ける。璃子は昔、りん、という名だった。
「もうひとつの江戸だ」
 伊吹がりんを連れて境い目を抜けると、江戸の町は様相を一変した。空には羽を広げた天狗や雲に乗った稲荷神。通りには百鬼夜行かと見紛うほどに妖怪たちが溢れている。明らかにこの世のものではない景観だというのに。
「こちらの正月は賑わっていますね」
 怖がる素振りを見せるどころか、りんは笑顔になるのだった。伊吹は、肝が座っている、と感心する。
「ウツシヨの元旦は静かだからな」
 江戸時代、町人たちは大晦日をにぎやかに過ごし、元旦はいわゆる寝正月だった。とはいえ、生粋の江戸っ子はそもそもあまり働くことを好まない。宵越しの金は持たぬ、という言葉どおりの生活ぶりだ。
 しばらくすると、お囃子にのって大道芸人たちがやってきた。個性的な妖怪がさらに仮装をしているのでややこしい。猿回しの猿使いも経立(あやかし)である。あっという間に人垣ができ、ウツシヨと変わらずカクリヨも気ままなものだと伊吹は思う。
 伊吹はふわりと舞う紙に手を伸ばした。人魚をコミカルにしたような世姿をした妖怪、アマビエの描かれた瓦版だった。アマビエは、疫病を鎮めると、カクリヨで大ブレイク中のあやかしだ。りんに渡すと「ありがたやありがたや」と隣に神様がいることも忘れ、ありがたがっていた。
「ところで、伊吹様はカクリヨにお暮らしなのですか?」
「私は庶民の神だから行ったり来たりだ」
「ならば、私も伊吹様について、あちらとこちらを行き来いたします」
「おりんの好きにするがよい」
 りんは、にっこり微笑むと、ぽっと頬を染めた。
「私は普通の暮らしがしたいのです。伊吹様と二人、長屋で仲良く暮らしたいだけです。お願いします」
 参るように手を合わせる。
(長屋で暮らせと?)
 小さな祠に暮らしているとはいえ、神様である伊吹は戸惑った。
 そこで思い出したかのように、りんが四文銭を取り出した。神様への願い事には賽銭が必要だ。
(正月だから羽振りがいいな)
 普段の賽銭ならば一文がいいところだろう。
 りんに頼まれては断るわけにもいかない。伊吹は渋々と答える。
「その願い、聞き届けた」
 そうしてりんは望み通り、カクリヨにて九尺二間の裏長屋で新婚生活を送ることになった。
 九尺二間とは、間口二・七メートル、奥行三・六メートル、現代の六畳である。土間を省けば、居住スペースは四畳半。つまり、ひどく狭い。
 しかしなぜなのか、家賃は二百文という破格の値段だった。ウツシヨとカクリヨの物価は似たようなものだ。ちなみに伊吹の社がある五街道の拠点である日本橋付近は、たいへん地価が高かった。一等地に住んでいるのだから、本当なら伊吹はセレブ神様である。
(祠は小さいけどな……)
「それにしても、これが庶民の暮らしか」
 カジュアルな着流し姿の伊吹は、ぐるりと室内を見回して言った。長屋暮らしであれば、ひと月一両もあれば生活は成り立つだろう。伊吹にもそのくらいの甲斐性はある。
「伊吹様は庶民の神様ですから、身をもって体験するのもよろしいんじゃないでしょうか」
 畳の上で膝を突き合わせているりんは、楽しくてしょうがないといった様子だ。黒襟をかけた古着の黄八丈と日本髪がいかにも町娘らしい。
「確かに。今さらではあるが、実際こうして外へ出てみれば、庶民の暮らしに奇妙だと思うこともある」
 伊吹は腕を組んで考え込むような素振りをする。
「例えば、どのように奇妙なことが?」
 りんは膝を進め、伊吹の顔を覗き込む。
「そうだな。近くの米屋は、なぜ天井から吊り下げた筵に鶏を飼っているのだ?」
 米屋をやっているのは、米とぎ婆と呼ばれる白髪で腰の曲がった妖怪だ。米の研ぎ方には少々口うるさく、米研ぎざるをいつも抱えている。
「鶏は米につく虫を食べてくれるんですよ。猫にいたずらされないように、ああして高いところに飼っているのです」
「本当か?」
「伊吹様でもご存じないことがあるんですね」
 りんは、ふふふ、と笑った。それからしばらくしたのち、璃子が米屋から鶏を譲り受け焼き鳥にしたというのは、前に説明したとおりである。
「さて、ごはんの支度をいたしましょう! 伊吹様は寛いでいてくださいね」
 言われた通りに伊吹は畳の上に寝転がり、りんが忙しなく働く姿を見守っていた。しかし竈神の札に気づくと、自分のほうが見張られているようで気まずくなり、台所を背に寝返りを打つ。
「大根をたくさんいただいたんですよ」
 土間に山積みされた大根のことは最初から気になっていた。
 着物の袖が邪魔にならないようたすき掛けしたりんは、意気揚々と台所に立つ。
(大根か……)
 嫌な予感がしたがあえて口にしない。日本橋と言えば魚河岸である。しかし、魚だけではない。色んな食材が集まる、いわば江戸の台所だ。
(まさか大根だけ?)
 まだ、りんがどのような料理を作るのか知らなかった伊吹は、期待と不安が入り混じったような心境だった。
 竈に薪をくべ、火吹き竹で空気を送っているようだ。耳を澄ませ、それらのりんの働きを想像しながら、なぜかハラハラとした気持ちになっていく。
「きゃあ!」
「どうした⁉」
 りんの悲鳴に驚いた伊吹は、すぐさま土間へ下りる。
「すみません。吹きこぼれました」
 羽釜に乗った厚い木の蓋が浮き上がるとは、よほど火が強かったのだろうか。米を炊いたことのない伊吹にはさっぱり分からない。
 りんはと言えば、火を弱めようと慌てて竈から薪を抜いているところだ。
「おりん、大丈夫か?」
「大丈夫です。伊吹様は役に立ちませんから、どうぞあちらへ」
 やさ男は不要とばかりに、手で追い払われる。
(神なのに役立たず⁉)
「だが……」
「大丈夫ですって」
 振り返ったりんを見て、伊吹は目を見開いた。そして、大声で笑い出す。
「伊吹様? どうされたのですか?」
「すすがついておるぞ」
 必死だったりんは、思わず汚れた手で触れてしまったのだろう。鼻の頭を真っ黒にしてきょとんとしている。
「えっ、嫌だ、どうしよう」
 さらに顔を手でぬぐったせいで、すすが広がった。
「おりんの顔が真っ黒だ」
 あまりの健気さに、伊吹はうっかり、りんを抱きしめてしまった。
「いやあ!」
「うわっ」
 しかし、どん、と突き返される。伊吹はよろよろと、一段上がった四畳半に尻もちをついた。
「まだお天道様が高いうちからなんてことするんですかっ!」
 ウブなりんは真っ黒な顔の下で真っ赤になっていた。
「伊吹様はおとなしくしていてください!」
「は、はい」
 りんの迫力に負け、伊吹は言いわけをする機会を逃す。それから言われた通りおとなしく、料理が出来上がるのを待つのだった。
 そして出来上がった夕餉は、見事に大根のオンパレード。
 まずは、大根おろしのしぼり汁と塩で炊いたごはんに、くちなしで染めた大根を混ぜ合わせた大根飯。黄色に染まった大根は食卓を華やかにする。もてなし用の料理だろう。
 次に、揚げ出し大根。油でじっくり揚げた大根に、さらに薬味として大根おろしをのせ醤油を垂らす。ひたすら大根で攻めた料理である。表面はカリッと中はホクホク、食感が楽しい一品だ。
 最後は、大根雪汁。葛粉でとろみを付けた大根おろしを、薄い味噌汁で伸ばし、だし汁に入れてひと煮立ちする。薬味は陳皮、ねぎ、のり。温まるうえに、心が落ち着く。
「これはこれは……」
「大根をいただいたときに教わったんです」
 大根ばかりというのには驚いたものの、どれも粋な味わいだった。
「美味い」
 伊吹は無意識にその言葉を発した。
 りんが満面の笑みになる。
「伊吹様からのお褒めの言葉が、りんの幸せです」
「ならば毎日、美味い、と言おうか」
 二人は微笑みあった。
 おいしい料理はいつも幸せを連れてくる。食事の席では、人も人ならざるものも同じ。料理を前にしたときは、しかめっ面より笑顔のほうがより美味しいと、伊吹は思うのだった。
 
◆◇◆

「大根料理エモい……いえ、面白そうです」
 江戸時代の大根料理の話に、現世の璃子は目を輝かせる。
 実は料理した本人であるが、前世の記憶がないのだから仕方ない。
「今の世は様々な食材があるから、別に大根にこだわる必要はないと思うが」
 そうは言っても、またも大根づくしにされてはたまらないと、伊吹は警戒する。
「う〜ん、大根、大根……」
 璃子は目を閉じて呪文のように「大根」を何度も唱える。
「な、何をしているんだ?」
「頭の中の料理本をペラペラとめくっているところです。大根飯……ふむふむ」
「料理本?」
「はい。藤三郎さんから譲り受けた料理本の内容を覚えてしまったようで。パックンレシピで検索するより便利で助かってます」
 伊吹はそこでハッとする。
『りんには七珍万宝料理帖がありますから!』
 記憶の中にある、大事そうに料理本を抱えているりんと、目の前の璃子の姿が重なったからだ。
「その料理本は……」
 遠い昔の、カクリヨでの暮らしを思い返しながら、伊吹はつぶやくように言った。
「え? 料理本が何か?」
「いや……なんでもない」
 伊吹は頭を振る。昔は昔、今は今。現世の璃子の心を、不必要に惑わすのはよくない。
 さりげなく目の前の膳に視線を移す。デザートの、黒豆が飾られたプリンをそっと手にした。黒豆はしわもなくツヤツヤに輝いている。
「甘味好きの伊吹さまのお口に合うといいですが」
「どうかな」
 プリンをスプーンでひとすくいし、口に入れた。優しい甘みが広がっていく。璃子の心のようにやわらかだ。
「い、いかがですか?」
 璃子の期待した眼差しが自分に注がれていることに、少しばかり伊吹は照れくさくなった。そう簡単に褒めてはやらないぞ、と思ったものの。
「…………美味い」
 やっぱり璃子の笑顔が見たくなり、結局「美味い」を連発してしまう伊吹であった。


 了

表紙

神様のお膳
毎日食べたい江戸ごはん

  • 著:タカナシ
  • イラスト:pon-marsh
  • 発売日:2021年1月20日
  • 価格:759円(本体690円+税10%)