「夏の忘れ物」
「このひしゃげた茶色い物体はなんだ?」
手の中の画用紙が一枚なくなっているのを、男のその発言で気づく。横を向くと、隣に立つ彼が、難しい顔で私の持ってきた画用紙を見つめていた。
「ちょ、ちょっと、返してよっ!」
身長差があるのですんなりとは届かない。彼の薄紫の上品な着物の袖をぐいっと引っ張り、やっとのことで奪還……――と思いきや。
「あ!」
彼の手を離れた画用紙は無常にも、赤く色づいた葉の絨毯の上に落ちてしまった。
拾い上げて振り返ると、いつの間にか石段に腰掛けた彼が、私を見てニヤリと笑う。チラチラと舞う落ち葉をバックに、一つに括った真白の髪が風になびく姿はとても絵になり、それがまた憎らしい。
「ひしゃげた物体って失礼な。見ればわかるでしょ? 麦わら帽子を描いたの!」
「むぎわらぼうし……?」
ああ、だめだ。この反応はわかってない。私は彼の隣に腰掛け、大きなため息と共に画用紙の絵を見せつけた。
「麦わら帽子! ほら、夏によく見かけたでしょ?」
「ああ、あの帽子のことか」
「最初からそう言ってるのに。っていうかだいたい、私の絵を見たら帽子だってことくらいわかりそうなものだけどね?」
「絵心のないが悪い」
「…………!」
……堪えろ、八重子。彼に言い返したところでどうにもならないことは、今までの経験からわかりきっている。
イライラを悟られないように視線を景色に向けた。道路沿いに並ぶイチョウは総じて黄色く色づき、視覚でも秋を感じることができる。
そう、季節は秋。私――八重子がここ、能登の地を訪れて半年経った。
隣に座る、浮世離れなこの男――は、石段を上った先にある鈴ノ守神社に祀られた神「さま」に仕える「白狐」なのだ。
ひょんなことから行動を共にするようになり、役目が終わった今でもこうしてちょっかいをかけてくる迷惑なヤツ。
「この絵を縁さまに見せるのか? この絵を」
二紫名がククッと小さく笑いながらそう言った。
私と縁さまの関係はちょっと複雑で、それは私の祖母から繋がっている。なんやかんやあって、縁さまに身の回りのことをお話しするのが私の今の役目となっていた。
今日もこうして、学校での出来事を語ろうと画用紙を持ってきたわけだ。
「……美術の授業で『夏の想い出』っていうテーマで絵を描いたの。『家にある、夏を感じるものを描きましょう』って。押入れの中にしまってあったんだけどね、お母さんが言うには、この帽子は私のお気に入りだったんだって。夏の時期はこれを被って出かけてたみたいで」
「覚えていないのか?」
「あはは、さすがにそんな細かいことまでは思い出せないよ。なにか大事な記憶が紐づいていたなら話は別だけど……って、二紫名?」
なぜか二紫名が深いため息をついている。私、変なこと言った?
「え、なに」
「いや、なんでもない」
「なんでもないって顔じゃないじゃん」
「言っても無駄だ」
――なんなのさ。
私が一度は失くして、そして半年前に取り戻した記憶はどれも大切なものばかり。それでも思い出せないということは、それは些細な記憶だということだ。
「ねぇ、本当になんな――」
「やーえーちゃんっ!」
「やーえーちゃんっ!」
ドンッと軽い衝撃が体に加わったかと思うと、目の前に着物姿の二人の女の子が現れた。
「やえちゃん、早くあおと遊ぶのー」
「みどりと遊ぶのー」
太陽みたいな笑顔を浮かべるこの二人。私の首元に絡みつき横から顔を出すのがあおで、制服の袖を掴むのがみどりだ。二人とももちろん妖で、本当の姿は狛犬だったりする。
この二人に見つかったとなれば、こうして石段に長居するわけにもいかない。私は彼女らに手を引かれるままゆっくり立ち上がった。
「じゃあ今日も隠れ鬼しますか!」
「きゃー☆」
「きゃー☆」
二人は一通り騒ぎ終えると、一目散に逃げて行った。つまり私が鬼ってことね。
さっきの二紫名の態度が気になるところだけど……。振り返れば、眉根を寄せ不服そうな顔の二紫名と目が合った。
「――早く思い出せ、」
その瞬間、風が吹き、彼の言葉をさらっていってしまった。
「えっ……なに?」
「……早く追いかけないと、あいつらが待ちくたびれるぞ……と言ったんだ」
「え、あ、そうだね」
二紫名の言葉に急かされるように、慌てて石段を上がる。
風のせいでハッキリとは聞こえなかったけど……「思い出せ」って言ったような気がするのは、気のせいだろうか。
――彼の言葉の意味を知るのは、もう少し先のお話。